資料287 「水戸の医師異人に会ふ事」(根岸鎮衛『耳袋』巻5より)
|
|
|
(注) | 1. |
上記の「水戸の医師異人に会ふ事」(根岸鎮衛『耳袋』巻5より)は、東洋文庫207『耳袋
1』(根岸鎮衛著、鈴木棠三編注。平凡社・1972年3月29日初版第1刷発行)によりました。(310~312頁) ただし、漢字を旧字体に、仮名遣いを歴史的仮名遣いに改めてあります。 |
|||
2. | 東洋文庫207『耳袋 1』の凡例に、「本書は、三一書房刊『日本庶民生活資料集成巻16』所収の10巻本を基にして、本文を作製したものである」とあります。 | ||||
3. | 平仮名の「く」を縦に伸ばした形の繰り返し符号は、普通の仮名に直してあります。(「しかじか」) | ||||
4. | 次に、東洋文庫『耳袋
1』から、注を引かせていただきます。 〇江戸表水府の屋敷=水戸藩上屋敷。小石川御門外。今の後楽園がその跡。 〇原玄養=原玄養は南陽の誤り。南陽は名を昌克、通称を玄与といい、南陽は文政元年に隠居してからの号。玄与と南陽を混合した誤りであろう。天明7年水戸家の侍医に登庸され、30年侍仕し、文政元年(1818)に66歳で没した。軍陣医書の嚆矢として知られる『砦草』をはじめ著述が多い。3百石を領した(没年及び享年は彰考館長福田耕二郎氏が『水府系纂』の記事を教示せられたものによる。人名辞書には文政3年(1820)68歳で没したとしたものもある)。 |
||||
5. | 『茨城県大百科事典』(茨城新聞社、1981年10月8日発行)の「原南陽」の項には、「1753~1820」 とあり、文政3年(1820)没となっています。同書には、「(原南陽は)水戸医学に古医方派の実証的学風を導入して、水戸医学発展の基礎を築くとともに、臨床の面でも名医として士民の信頼を得た。また、200人にも及ぶ多くの門弟を養成した功績も大きい。著書には、軍陣医書としては最初の出版とされる『戦陣奇方砦艸(せんじんきほうとりでぐさ)』、鼠咬(ねずみくい)の毒について論じた『瘈狗傷考(けいくしょうこう)』など多数ある」と紹介されています(筆者は鈴木暎一氏)。 ※ 断るまでもないことですが、ここで取り上げられている話の主人公は原南陽ではなく、原南陽と同時代の水戸城下のある医師の倅(せがれ)で、名前は出ていません。 |
||||
6. | 〇耳袋・耳囊(みみぶくろ)=随筆。根岸鎮衛やすもり著。10巻。1814年(文化11)成る。立身して勘定奉行・江戸町奉行などを勤めた著者が、巷説・奇談・教訓話などを書き留めたもの。 〇根岸鎮衛(ねぎし・やすもり)=江戸後期の江戸町奉行。一名、守信。随筆「耳囊みみぶくろ」の著者。(1737~1815)(以上、『広辞苑』第6版による。) |