資料287 「水戸の医師異人に会ふ事」(根岸鎮衛『耳袋』巻5より)
 

 

         

  

   水戸の醫師異人に會ふ事   根岸鎭衛『耳袋』(『耳囊』)巻5より   

 
水戸城下にて原玄養と一同、當時行なはれ流行なせる醫師の、名は聞き違ひけるが、かの醫師の悴にて、これ又療治を出精して在町をかけあるきて療治をなしけるが、或日途中にて老いたる山伏にあひしが、「そのもとは醫業に精を入れ給ふ事なれば、明後日かの町の裏川原へ、なん時にまかり越し待ち給ふべし。我ら傳授いたし候事あり」と言ひけるゆゑ、承知の旨挨拶して立別れけるが、「いつかう知る人にもこれなく、名どころも聞かざればいかゞせん」と宿元へ歸り話しけるに、「それは怪しき事なり。いかなるあやまちあらんも計りがたし」とて親妻子もとめけるゆゑ、期に到りても行かざりしが、又明けの日途中にてかの山伏に會ひしゆゑ、「なにゆゑ約束を違ひしや」と申しけるゆゑ、「しかじかの事ゆゑ」と斷りしに、また「明夜は必ず川原へ來り給へ」と期を約し立別れしゆゑ、宿元へ歸りてしかじかの事と語りて、「今宵はぜひまかるべき」と言ひしを、兩親そのほか親族など打寄り、「それは俗にいふ天狗などといふものならん。かまへて無用なり」といさめ止めしかど、かの醫師何分不得心の趣ゆゑ、その夜は兩親及び親族打寄りて寢ずなどして止めけるが、深更にも及び頻りにねむりを催すころ、かの醫師ひそかに眼合を忍び出でて約束の河原に到りければ、山伏待ち居て、五寸ばかりの桐の新しき小箱を與へけるゆゑ、持歸りければ、家中にては所々たづねて立ち騷ぎ居し事ゆゑ、大きに喜びて、「いかなる事なり」とたづぬれど、かの山伏、「人にかたる事なかれ」と切に諌めける事ゆゑ、くはしき譯も語らず。さて又箱の内に藥法をしたゝめし小さき書物あり。その奇効尤もと思はざるもあれど、右の内、丸藥の一方を試みに調合なしけるに、不思議なるかな、右丸藥を求めんとて近國近在より夥しくたづね來りて、右藥を買ひ求めける事まことに門前に市をなし、わづかの間に數萬の德付きけるが、そのほかの藥法ども見しが、格別の奇法とも思はれねば、たえて信仰の心もなく過ぎしが、右は正二月のころの事なりしに、三月とやらん近所へ療治にいでしが、「湯をたてけるゆゑ入り給へ」とかの亭主の馳走に任せ、懷中物と一同かの箱入りの書物も座敷に殘し置きしに、勝手より火事出で來て、早くもかの懷中物さし置きし場所へ火移り、一毫も殘らず焦土となりしゆゑ、かの醫師右の奇物を惜しみ火災の場所を捜しけるに、不思議に右桐の箱瓦の間に殘り居しゆゑ、嬉しくも早々取上げ見しに、箱はふた・み共に別條なけれど、合せ口のすきより火氣の入り候樣子にて、箱の内の奇書は燒け失せけるとなり。右箱を頃日(このごろ)江戸表水府の屋敷へ持參して、見し者ありけると人の語りける。寛政八年の春夏の事なるべし。

 

 

   (注)  1.  上記の「水戸の医師異人に会ふ事」(根岸鎮衛『耳袋』巻5より)は、東洋文庫207
         『耳袋 1』(根岸鎮衛著、鈴木棠三編注。平凡社・1972年3月29日初版第1刷発行)に
         よりました。(310~312頁)
           ただし、漢字を旧字体に、仮名遣いを歴史的仮名遣いに改めてあります。
        2. 東洋文庫207『耳袋 1』の凡例に、「本書は、三一書房刊『日本庶民生活資料集成
         巻16』所収の10巻本を基にして、本文を作製したものである」とあります。
         3. 平仮名の「く」を縦に伸ばした形の繰り返し符号は、普通の仮名に直してあります。
         (「しかじか」)
        4. 次に、東洋文庫『耳袋 1』から、注を引かせていただきます。
         江戸表水府の屋敷=水戸藩上屋敷。小石川御門外。今の後楽園がその跡。
         原玄養=原玄養は南陽の誤り。南陽は名を昌克、通称を玄与といい、南陽は文政
            元年に隠居してからの号。玄与と南陽を混合した誤りであろう。天明7年水戸
            家の侍医に登庸され、30年侍仕し、文政元年(1818)に66歳で没した。軍陣
            医書の嚆矢として知られる『砦草』をはじめ著述が多い。3百石を領した(没年
            及び享年は彰考館長福田耕二郎氏が『水府系纂』の記事を教示せられたもの
            による。人名辞書には文政3年(1820)68歳で没したとしたものもある)。
        5.  『茨城県大百科事典』(茨城新聞社、1981年10月8日発行)の「原南陽」の項には、
          「1753~1820」 とあり、文政3年(1820)没となっています。同書には、「(原南陽
          は)水戸医学に古医方派の実証的学風を導入して、水戸医学発展の基礎を築くとと
          もに、臨床の面でも名医として士民の信頼を得た。また、200人にも及ぶ多くの門弟
          を養成した功績も大きい。著書には、軍陣医書としては最初の出版とされる『戦陣奇
          方砦艸
(せんじんきほうとりでぐさ)』、鼠咬(ねずみくい)の毒について論じた『瘈狗傷考(けいく
             しょうこう)
』など多数ある」と紹介されています(筆者は鈴木暎一氏)
             
  断るまでもないことですが、ここで取り上げられている話の主人公は原南陽で
             はなく、原南陽と同時代の水戸城下のある医師の倅
(せがれ)で、名前は出てい
             ません。
        6. 耳袋・耳囊(みみぶくろ)=随筆。根岸鎮衛
やすもり著。10巻。1814年(文化11)成る。
             立身して勘定奉行・江戸町奉行などを勤めた著者が、巷説・奇談・教訓話などを
             書き留めたもの。
          根岸鎮衛(ねぎし・やすもり)=江戸後期の江戸町奉行。一名、守信。随筆「耳囊
みみ
                   ぶくろ
」の著者。(1737~1815) 
                                   
 (以上、『広辞苑』第6版による。)     




             
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