資料283 横井也有「歎老辞」(『鶉衣』より)



          歎 老 辭          横 井 也 有
    
 芭蕉翁は五十一にて世をさり給ひ、作文に名を得し難波の西鶴も、五十二にて一期を終り、見過しにけり末二年の辭世を殘せり。わが虚弱多病なる、それらの年もかぞへこして、今年は五十三の秋も立ぬ。爲頼の中納言の、若き人々の逃かくれければ、いづくにか身をばよせましとよみて歎かれけんも、やゝ思ひしる身とはなれりけり。さればうき世に立交らんとすれば、なきが多くもなりゆきて、松も昔の友にはあらず。たまたま一座につらなりて、若き人々にもいやがられじと、心かろくうちふるまへども、耳うとくなれば咄も間違ひ、たとへ聞ゆるさゝやきも、當時のはやり詞をしらねば、それは何事何ゆへぞと、根問葉問をむつかしがりて、枕相撲も拳酒も、さはぎは次へ遠ざかれば、奥の間に只一人、火燵蒲團の島守となりて、おむかひがまいりましたと、とはぬに告る人にも忝しと禮はいへども、何のかたじけなき事かあらむ。六十の髭を墨にそめて、北國の軍にむかひ、五十の顔におしろいして、三ヶの津の舞臺にまじはるも、いづれか老を歎かずやある。歌も浄るりもおとし咄も、昔は今のにまさりしものをと、老人ごとに覺えたるは、をのが心の愚なり。物は次第に面白けれども、今のはわれが面白からぬにて、昔は我が面白かりしなり。しかれば、人にもうとまれず、我も心のたのしむべき身のをき所もやと思ひめぐらすに、わが身の老を忘れざれば、しばらくも心たのしまず。わが身の老を忘るれば、例の人にはいやがられて、あるはにげなき酒色の上に、あやまちをも取出でん。されば老はわするべし。又老は忘るべからず。二ッの境まことに得がたしや。今もし蓬萊の店をさがさんに、不老の藥はうり切たり、不死の藥ばかりありといはゞ、たとへ一錢に十袋うるとも、不老をはなれて何かせん。不死はなくとも不老あらば、十日なりとも足ぬべし。神仙不死何事をかなす、たゞ秋風に向て感慨多からむと、薊子訓をそしりしもさる事ぞかし。ねがはくは、人はよきほどのしまひあらばや。兼好がいひし四十たらずの物ずきは、なべてのうへには早過たり。かの稀なりといひし七十まではいかゞあるべき。こゝにいさゝかわが物ずきをいはゞ、あたり隣の耳にやかゝらん。とても願のとゞくまじきには、不用の長談議いはぬはいふにまさらんをと、此論こゝに筆を拭ぬ。
 


  (注) 1.  上記の「歎老辭(たんろうのじ)」(「歎老の辞」)は、岩波書店刊の日本古典文学大系92『近世俳句俳文集』(阿部喜三男・麻生磯次校注、昭和39年7月6日第1刷発行)所収の『鶉衣』によりました。『鶉衣』の校注者は、麻生磯次氏です。         
    2.   大系本の凡例に、「『鶉衣』の木版本には十二册本と四冊本との二種あるが、本書は塩屋忠兵衛・塩屋弥七合梓の四冊本を底本とした。板下は十二册本と全く同様である」とあります。
 また、底本には句読点を全然施していないので、通行の「。」「、」の符号を用いて段落を調えることにした、とあります。
   
    3.  平仮名の「く」を縦に伸ばした形の繰り返し符号は、平仮名に直して記載しました。(「たまたま」)         
    4.   本文の読みを補っておきます。(読みは、現代仮名遣いで示しました。)
 一期(いちご)を終り  咄(はなし)も間違ひ  根問葉問(ねどいはどい)  拳酒(けんざけ) 火燵蒲團(こたつぶとん)  北國の軍(いくさ)  秋風に向(むかい)て  薊子訓(けいしくん)  筆を拭(ぬぐい)ぬ         
   
    5.  〇爲頼の中納言については、大系本の頭注に、「藤原為頼。村上天皇頃の人で、皇太后宮大進に任ぜられた。『撰集抄』巻八に、為頼中納言が参内して、年頃懇意にしていた人々のいる所へ行ったところが、どういうわけか若い殿上人たちが逃げかくれたので、「いづくにか身をばよせまし世の中に老をいとはぬ人しなければ」とよんだということが出ている」とあります。
 〇「例の人にはいやがられて」は、「前にいったように人にいやがられて」と、注があります。(引用者注:「例の」は、例によって、いつもの通りに、の意で、ここは「いやがられて」を修飾しています。)
 〇「神仙不死何事をかなす、たゞ秋風に向て感慨多からむ」(神仙は不死だといっても、何事を成すであろう。年をとるにつれ、秋風の吹くに対していろいろ物思いの多いことだろう)については、「宋の陸放翁の詩句に「神仙死セズ何事ヲカ成サン、只秋風ニ向ッテ感慨多カラン」とあるに拠る」とあります。
 〇薊子訓については、「『神仙伝』巻五に、薊子訓は斉の人で、三百年も生きのびたが、顔色は少しも老いなかった。別に不老の薬を服用していたわけでもなく、人柄が清澹で閑居して易を読んでいた。その死骸を棺に納めたところ、雷のような音がして棺が飛散し、あとには履が一隻残っていたという」とあります。

 次に、典拠のある部分について、頭注から引かせていただきます。
 〇見過しにけり末二年の辞世を残せり……浮世の月見過しにけり末二年 元禄六年八月十日五十二才(『西鶴置土産』巻頭)  
 〇なきが多くもなりゆきて……世の中にあらましかばとおもふ人なきが多くもなりにけるかな(『和漢朗詠集』交友の部)
 〇松も昔の友にはあらず……たれをかも知る人にせむ高砂の松も昔の友ならなくに(藤原興風、『古今集』雜上)
 〇六十の髭を墨にそめて、北國の軍にむかひ……斎藤実盛は六十有余に及び、髭・髪を黒く染めて、惟盛に従い、北国に義仲の軍と戦った。
 〇兼好がいひし四十たらずの……命長ければ辱多し。長くとも四十に足らぬ程にて死なんこそめやすかるべけれ(『徒然草』第7段)
 〇かの稀なりといひし七十……人生七十古来稀ナリ(杜甫「曲江」の詩)

 なお、その他の語句の詳しい注釈等については、大系本の400~402頁の頭注を参照してください。
   
       〇横井也有(よこい・やゆう)=江戸中期の俳人。名は時般ときつら。別号に野有、知雨亭・半掃庵など。尾張藩の重臣。多才多能の人で軽妙洒脱な俳文に最も秀で、俳文集「鶉衣」によって名高い。(1702~1783)
 〇鶉衣(うずらごろも)=俳文集。横井也有の遺稿。刊本12冊。前編1787年(天明7)刊、後編88年刊、続編・拾遺1823年(文政6)刊。和漢の故事をはじめ種々の材料を機知と技巧をもって軽妙な筆致で描く。(以上、『広辞苑』第6版による。)
   






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