資料282 横井也有「奈良団賛」(『鶉衣』より)
 

 

         

  

    奈 良 團 贊             横 井 也 有

 
靑によしならの帝の御時、いかなる叡慮にあづかりてか、此地の名産とはなれりけむ。世はたゞ其道の藝くはしからば、多能はなくてもあらまし。かれよ、かしこくも風を生ずる外は、たえて無能にして、一曲一かなでの間にもあはざれば、腰にたゝまれて公界にへつらふねぢけ心もなし。たゞ木の端と思ひすてたる雲水の生涯ならむ。さるは桐の箱の家をも求ず。ひさごがもとの夕すゞみ、晝ねの枕に宿直して、人の心に秋風たてば、また來る夏をたのむとも見えず、物置の片隅に紙屑籠と相住して、鼠の足にけがさるれども、地紙をまくられて野ざらしとなる扇にはまさりなむ。我汝に心をゆるす。汝我に馴て、はだか身の寐姿を、あなかしこ、人にかたる事なかれ。
  袴着る日はやすまする團かな
 

 

 
  (注) 1.  上記の「奈良團贊(ならうちはさん)」は、岩波書店刊の日本古典文学大系92『近世俳句俳文集』(阿部喜三男・麻生磯次校注、昭和39年7月6日第1刷発行)所収の『鶉衣』によりました。『鶉衣』の校注者は、麻生磯次氏です。    
    2.  大系本の凡例に、「『鶉衣』の木版本には十二册本と四冊本との二種あるが、本書は塩屋忠兵衛・塩屋弥七合梓の四冊本を底本とした。板下は十二册本と全く同様である」とあります。
 また、底本には句読点を全然施していないので、通行の「。」「、」の符号を用いて段落を調えることにした、とあります。
   
    3.  本文の読みを補っておきます。(読みは、現代仮名遣いで示しました。)
 團(うちわ) 間(ま)にも 公界(くがい) 求(もとめ)ず 宿直(とのい) 相住(あいずみ)して  我に馴(なれ)て
   
    4.  奈良團(ならうちわ)と贊(さん)について、大系本の頭注に、
 「奈良から産出する古雅な団扇。もと春日社人の作ったもので、「ねぎうちわ」といい、判じ物の絵などが書いてあったので、「判じうちわ」などともいった。 「賛」とはもと漢文の一体で、人物や物事を賞める文である」
とあります。
 なお、語句の詳しい注釈等については、大系本の354頁の頭注を参照してください。
   
    5.  〇横井也有(よこい・やゆう)=江戸中期の俳人。名は時般ときつら。別号に野有、知雨亭・半掃庵など。尾張藩の重臣。多才多能の人で軽妙洒脱な俳文に最も秀で、俳文集「鶉衣」によって名高い。(1702~1783)
 〇鶉衣(うずらごろも)=俳文集。横井也有の遺稿。刊本12冊。前編1787年(天明7)刊、後編88年刊、続編・拾遺1823年(文政6)刊。和漢の故事をはじめ種々の材料を機知と技巧をもって軽妙な筆致で描く。
(以上、『広辞苑』第6版による)  
   
    6.  竹内玄々一著『俳家奇人談』(明治25年4月18日出版、筒井民治郎発行、今古堂発兌)から、「横井也有」の項を引いておきます。

 横井孫左衛門は尾陽
(びやう)名古屋の重臣なり性(せい)淳朴にして文雅を好む俳諧にも長じて世に獨立す常に人に語(かたつ)て曰く我に俳諧の師なく又門人もなし唯正直なる小兒の舌しどろに言出せるがおのづから五七五にかなふべしと俳名を也有といふ 「松風の里何處(どこ)までぞ門飾り 「生娘の袖誰(た)が引て雉の聲 「晝皃(ひるがほ)やどちらの露も間に合ず 「蚰蜒(なめくじり)いつまで草にかくれけり一年松木淡々が己(おのれ)を高ぶり人を慢(あなど)ると傳へ聞(きゝ)初て對面して 「化物(ばけもの)の生躰(しやうたい)見たり枯(かれ)をばな其誠心(せいしん)なる事大概この類(るい)なり又述(じゆつ)する所の鶉(うづら)ごろも浦の梅(うめ)野父談(やほだん)小皮籠(こかはご)等の俳文その實体(じつてい)にして鼓舞自在なる事比類なきよし先哲も既に之(これ)を稱せり今ことごとく世に梓行(しんかう)す求め觀て其人の風流を知べし  

 この竹内玄々一著『俳家奇人談』(俳諧叢書第6編) の本文は、『国立国会図書館
デジタルコレクション』所収の画像本文によりました。(本文には「竹窓玄々一遺稿、蓬廬靑々參訂。俳諧叢書第六篇」とあります。
  →「横井也有」75/137

   
    7. (付記)
 1.上記『俳家奇人談』の本文中に「野父談(やほだん)」 とあるのは、
早稲田大学図書館ある蔵本(『俳家奇人談』天保13年壬寅孟春、大坂・河内屋喜兵衛、河内屋茂兵衛、江戸・丁子屋平兵衛蔵版)では『野夫談(やぶだん)』とあります。(画像で本文を読むことができます。)
   →
『俳家奇人談』(横井也有)
 2. 本文中の振り仮名は、一部省略しました。また、変体仮名は普通の仮名に直しました。平仮名の「く」を縦に伸ばした形の繰り返し符号は、普通の仮名に置き換えました。(「ことごとく」) 
  3. ここに、一般に「幽霊の正体見たり枯尾花」として知られている句が、「化物の生躰見たり枯尾花」(化物の正体見たり枯尾花)という形で引用されているのが注目されます。  
 4. 次に、竹内玄々一著『俳家奇人談』(俳諧叢書第6編)の本文を、句読点を補って、普通の表記に書き改めてみます。

 横井孫左衛門は、尾陽
(びやう)名古屋の重臣なり。性(せい)淳朴にして、文雅を好む。俳諧にも長じて、世に獨立す。常に人に語(かた)つて曰く、我に俳諧の師なく又、門人もなし。唯、正直なる小兒の、舌しどろに言ひ出(いだ)せるが、おのづから五七五にかなふべし、と。俳名を也有といふ。「松風の里何處(どこ)までぞ門飾り」。「生娘の袖誰(た)が引いて雉の聲」。「晝皃(ひるがほ)やどちらの露も間に合はず」。「蚰蜒(なめくじり)いつまで草にかくれけり」。一年、松木淡々が己(おのれ)を高ぶり人を慢(あなど)ると傳へ聞(き)き、初めて對面して、「化物(ばけもの)の生躰(しやうたい)見たり枯(かれ)をばな」。其の誠心(せいしん)なる事、大概この類(るい)なり。又、述(じゆつ)する所の「鶉(うづら)ごろも」「浦の梅(うめ)」「野父談(やほだん)」「小皮籠(こかはご)」等の俳文、その實体(じつてい)にして鼓舞自在なる事、比類なきよし、先哲も既に之(これ)を稱せり。今ことごとく世に梓行(しんかう)す。求め觀て其の人の風流を知るべし。 
   



       
      



                  
 
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