資料281 向井去来「落柿舎記」(落柿舎の記)
 

 

         

  

    落 柿 舎 記                去 來 

 
嵯峨にひとつのふる家侍る。そのほとり柿の木四十本あり。五とせ六とせ經ぬれど、このみも持來らず、代がゆるわざもきかねば、もし雨風に落されなば、王祥が志にもはぢよ、若鳶烏にとられなば、天の帝のめぐみにももれなむと、屋敷もる人を、常はいどみのゝしりけり。ことし八月の末、かしこにいたりぬ。折ふしみやこより商人の來り、立木にかい求めむと、一貫文さし出し悦びかへりぬ。予は猶そこにとゞまりけるに、ころころと屋根はしる音、ひしひしと庭につぶるゝ聲、よすがら落もやまず。明れば商人の見舞來たり、梢つくづくと打詠め、我むかふ髮の比より、白髮生るまで、此事を業とし侍れど、かくばかり落ぬる柿を見ず。きのふの價、かへしくれたびてむやと佗。いと便なければ、ゆるしやりぬ。此者のかへりに、友どちの許へ消息送るとて、みづから落柿舎の去來と書はじめけり。
  柿ぬしや木ずゑはちかきあらし山
 

 

  
 
   (注)  1.  上記の「落柿舎記(らくししゃのき)」は、岩波書店刊の日本古典文学大系92『近世俳句
         俳文集』(阿部喜三男・麻生磯次校注、昭和39年7月6日第1刷発行)所収の『風俗文
         選』によりました。『風俗文選』の校注者は、麻生磯次氏です。
        2. 大系本の凡例に、「『風俗文選』の底本には『本朝文選』を再版した野田治兵衛尉板
         の五冊本を用い、野田弥兵衛尉板の九冊本を参照した」とあります。
          また、底本には句読点に「。」のみを用いているのを、通行の「。」「、」の符号を用いて
         段落を調えることにした、とあります。
        3. 本文中、平仮名の「く」を縦に伸ばした形の繰り返し符号を用いているところは、引用
         者が平仮名を用いて表記しました。(「ころころ」「ひしひし」「つくづく」) 
        4. 本文の読みを補っておきます。(読みは、現代仮名遣いで示しました。)
           
代(しろ)がゆるわざ  若(もし)鳶烏(とびからす)にとられなば  天(あめ)の帝(みかど)  
            商人(あきびと)   立木(たちき)  打詠(うちなが)め  むかふ髮(むこうがみ)の比(ころ)  
            白髮生(おう)る  業(わざ)  きのふの價(あたい)  侘(わぶ)  消息(しょうそこ)

        5. 「このみも持來らず、代がゆるわざもきかねば」「立木にかい求めむと」について、大系
         本の頭注に、それぞれ「番人は柿の実を一度も届けて来ないし、柿を売って金に代えた
         という事も聞かない」、「木についているままひっくるめて買い求めようと」とあります。
          また、「王祥が志にもはぢよ」(あの王祥のやさしい心持に対して恥ずかしく思うがよい)
         については、後注に、「『晋書』の王祥伝に「丹奈有リテ実ヲ結ブ、母命ジテ之ヲ守ラシム、
         風雨毎ニ、祥輙チ樹ヲ抱イテ泣ク、其ノ篤孝純至此ノ如シ」とある。「丹奈」は赤いからな
         し」と出ています。「天
(あめ)の帝のめぐみにももれなむ」(神の御恵みにも見放されてしま
         うだろう)についても、同じく後注に、「『風俗文選通釈』に「天のみかどゝは天智天皇の農
         民の辛苦をおぼしめしける御恵のほどにももれなんとにや、又は天道の恵みをいへりとす
         るもよろしくや」とあるが、後説を採る」とあります。
          なお、語句の詳しい注釈等については、大系本の317頁の頭注を参照してください。
        6. 向井去来(むかい・きょらい)=江戸中期の俳人。名は兼時。字は元淵。別号、落柿舎
             など。蕉門十哲の一人。長崎の生れ。京都に住み、堂上家に仕え、致仕後、嵯峨
             に落柿舎を営んで芭蕉を招き、凡兆とともに「猿蓑
さるみの」を撰。その作風は蕉風
             の極致に達した。俳論「旅寝論」「去来抄」など。(1651~1704)
          落柿舎(らくししゃ)=京都市右京区嵯峨にあった向井去来の別荘。芭蕉がここで「嵯峨
             日記」を書いた。1770年(明和七)井上重厚が小倉山の麓の弘源寺跡に再興。現
             在の建物は明治初年に建立。おちがきのや。                             
                                            (以上、『広辞苑』第6版による)          
            




            
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