資料264 桜川遺蹟碑  


 





  
 櫻川遺蹟碑   
 

 

 

(碑表)

櫻川遺蹟碑 侯爵 德川圀順 

 

 

 

 

 

 

(碑陰)

淸流蜿蜒自北來東入仙湖此曰櫻川其過河和田見川也濚

 

 

洄於樹石之間頗有趣致元禄九年源義公相此處移植櫻樹

 

 

 

數百於岸上矣櫻川之稱始于此云嘗聞西茨城郡磯部神社

 

 

 

境内有櫻樹以珍種見稱葩微而色素所謂山小櫻者義公所

 

 

 

移植即是也義公已來藩侯屢枉駕士庶曳者亦多享保元

 

 

 

文間名冣著香雲十里與碧水相暎發花時淸賞可追想諸家

 

 

 

諷詠傳于今者不鮮歳月漸移風物亦哀及廢藩後官編入此

 

 

 

地於國有原野益委荒廢老櫻僅存數株耳河和田靑年會諸

 

 

 

人慨之披荊榛増植櫻樹謀復舊觀同村吏員贊之請地域移

 

 

 

管於官大正四年四月一日有命改爲名勝舊蹟地移河和田

 

 

 

村所管而靑年會東組專掌修理嗟乎義公之雅懷得復伸往

 

 

 

時盛觀亦可期乃喜爲之記時大正丁巳春三月也

 

 

 

             水戸 菊池謙二郎撰

 

 

 



 
 

 

          (注) 1. この「櫻川遺蹟碑」(桜川遺跡碑)は、水戸市の桜川団地と桜川西団地の間を
           流れる桜川の傍らにある桜川団地橋児童公園に建っています。碑文が書かれた
           大正丁巳年とは、大正6年(1917)のことです。
                  2. 撰文者の菊池謙二郎については、資料1「正岡子規の『水戸紀行』(全)」
           注11をご覧ください。
                  3.  碑は、表に「櫻川遺蹟碑 侯爵 德川圀順」とあり、裏面に「水戸 菊池謙二
           郎撰」として碑文が記されています。従って、碑表の「櫻川遺蹟碑」の文字は侯
           爵德川圀順の揮毫によるもの、碑陰の撰文は菊池謙二郎によるものです。
            碑文は1行24字、全12行で、最終行は20字なので、碑文の字数は284字
           ということになります(24×12-4=284)。「水戸 菊池謙二郎撰」の8字を加え
           ると、総字数292字となります。
            上に掲げた碑文の改行は、碑文の通りにしてあります。
            なお、碑文の「冣」の漢字は「最」の異体字で、碑文には「ウ冠+取」という形
           になっています。また、「暎」は「映」の異体字です。 
                  4. この「桜川遺蹟碑」の桜川は、謡曲で有名な岩瀬(現・桜川市)の桜川ではな
           く、水戸市を流れる桜川のことです。この川が桜川と名づけられたのは、碑文に
           あるように、徳川光圀が岩瀬の磯部神社からここに桜の木を移植して、もとの桜
           川に因んで同じく桜川と命名したことによります。
                  5. ここに出てくる桜は、水戸藩第2代藩主徳川光圀(義公)ゆかりの桜ですが、
           第9代藩主徳川斉昭(烈公)夫人ゆかりの山桜が、偕楽園の見晴らし広場の先
           にあります。
            「左近の桜」といわれるこの山桜は、京都御所の左近の桜を貰い受けた桜だ
           そうで、平成20年現在、樹齢40年を超える見事な桜です。山桜なので、開花の
           時期がソメイヨシノより少し遅れますので、見に行かれる時はご注意下さい。
                  6. 試みに、碑文を訓読してみます。
(よく読めないところがありますので、教えて頂ける
              とありがたいです。 2008.5.18)

                          櫻川遺蹟碑
             淸流蜿蜒として北より來
(きた)り、東のかた仙湖に入(い)る。此(これ)を櫻川と
             曰
(い)ふ。其の河和田・見川を過ぐるや、樹石の間(かん)に濚洄(えいかい)
             て、頗
(すこぶ)る趣致(しゅち)有り。元禄九年、源の義公、此の處を相(そう)し、
             櫻樹數百を岸上に移植す。櫻川の稱は、此
(ここ)に始まると云ふ。嘗て聞く、
             西茨城郡磯部神社境内に櫻樹有りと。珍種を以て稱せらる。葩
(はな)は微に
             して、色は素
(しろ)、所謂(いわゆる)山小櫻なる者なり。義公の移植せし所は、
             即ち是
(これ)なり。義公已來(いらい)、藩侯屢(しばしば)駕を枉(ま)げ、士庶の筇
             
(つえ)を曳く者も亦多し。享保・元文の間(かん)に、名冣(もっと)も著(あらわ)る。
             香雲十里、碧水と相
(あい)(えい)ず。花發(ひら)く時、淸賞追想すべし。諸家
             の諷詠の今に傳はる者、鮮
(すくな)からず。歳月漸(ようや)く移り、風物も亦哀
             し。廢藩後、官の此の地を國有に編入するに及び、原野益
(ますます)荒廢す
             るに委
(まか)せ、老櫻僅(わず)かに數株を存するのみ。河和田靑年會の諸人
             之
(これ)を慨(なげ)き、荊榛(けいしん)を披(ひら)き櫻樹を増植し、舊觀に復せん
             ことを謀
(はか)る。同村の吏員(りいん)(これ)に贊(さん)し、地域の移管を官に
             請ふ。大正四年四月一日、命有り、改めて名勝舊蹟地と爲し、河和田村の
             所管に移す。而
(しこう)して靑年會東組專(もっぱら)修理を掌(つかさど)る。嗟乎
             
(ああ)、義公の雅懷、復た伸ぶるを得ん。往時の盛觀も亦期すべし。乃(すな
             
わ)ち喜びて之(これ)が記を爲(つく)る。時に大正丁巳の春三月なり。
                                           水戸 菊池謙二郎撰す。            
          7. 碑の傍らに、碑の解説文が立っています。
                   桜川遺蹟
               桜川の名は、一六九六年(元禄九年)徳川光圀卿(義公・水戸第二代藩
               主)が、珍らしい桜樹数百本をこの地に植えたことにはじまるといわれて
               います。
               満開時は、その芳香を四方に放ち、その姿を清流に映じ、情趣にあふれ
               た桜の名所として広く知られた。人は訪れ、花鳥風月を鑑賞し、詩歌をつ
               くり吟じたと伝えられている。
               明治になり老樹数本を残すのみに荒廃したのを嘆いた河和田青年会の
               有志は、桜樹を増植し、再び盛観をみるまでに復した。
               大正四年、当時の河和田村の所管となり、名勝旧跡地として保存され、
               今日にいたっている。
               碑は桜川の由来と旧(もと)に復した喜びを刻んだものである。
                                            水戸市教育委員会

                            ※   ※   ※   ※   ※   ※   ※

                    
河和田十勝  天保年間選定(千八百三十年頃)
                
桜川の春風(さくらがわのしゅんぷう)
                  元禄九年(千六百九十六年)水戸光圀が真壁郡岩瀬の磯部
                  神社境内にある桜の苗木を取り寄せ、この地の両岸に植え
                  桜川と名付けた。享保・元文(千七百三十年頃)には花見客
                  で賑わったという、桜川由来の碑がある。
                  8.  『常陸野散策…いしぶみは何処』というサイトにも、この櫻川遺蹟碑が取り
             上げられています。ここには解説のほかに、碑の本文や碑全体の写真、碑のあ
              る場所の航空写真が出ています。
              また、この『常陸野散策…いしぶみは何処』というサイトには、このほか水戸
             周辺の多くの碑が取り上げられていて、参考になります。
                  9. 資料56に、「謡曲『桜川』(観世流)」があります。


 

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