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(注) |
1. |
上記の「徳川光圀教訓」は、『武家家訓・遺訓集成』(小澤富夫編集・校訂、ぺりかん社 1998年1月20日初版第1刷発行)によりました。 |
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2. |
「徳川光圀教訓」の底本は、国立公文書館内閣文庫蔵「警箴叢彙」所収の本文とのことです。 |
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3. |
日付けが「辰八月六日」となっているのは、何年のことでしょうか。 |
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4. |
『武家家訓・遺訓集成』所収の本文に施してある句読点・返り点は、ここでは省略しました。また、漢字が常用漢字体になっているのを、旧字体に改めました。(句読点をつけた本文を、注の9に示してあります。) |
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5. |
補注から引かせていただきます。
大殿様……光圀(寛永5年~元禄13年)、水戸第二代藩主、頼房の第三子(家康の孫)、西山・常山・梅里と号す。
若殿様……綱条(つなえだ)。
続松(ついまつ)……ツギマツの音便、松明(たいまつ)。
さね(札)……鉄または練革で作った鎧の材料の小板。札頭と札足を重ね革緒でからみ、縦に数段糸または革緒で緘す。
源威公……光圀の父、徳川頼房。 |
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6. |
上掲書巻末の「解説」で、小澤富夫氏は、「この「教訓」は、久慈郡太田西山の麓の隠居所を尋ねた家臣安積(あさか)覚兵衛の筆記であるため、本文では光圀を「大殿様」と記している。内容的にはいかにも光圀らしい自己の経験を述べた箇所が多く、他の近世大名の家訓とはやや性質を異にしている。その大半は藩主としての体験から諸々利の心得を訓誡するが、いずれも抽象的な教訓ではなく、きわめて実用的であり武芸・軍法・軍学についての心得が述べられている。また、算盤も陣立の人数の配分などの実務として必要であること、大将の宝は家中の侍であること、そのためにはよく家臣を選ぶこと、そして特に平生より健康に注意して身体を丈夫にするように心掛けるべきことが教訓されている」と書いておられます。(詳しくは同書416~417頁参照) |
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7. |
安積澹泊(あさか・たんぱく)=江戸中期の儒学者。名は覚。通称、覚兵衛。水戸藩士。朱舜水に朱子学を学ぶ。史学に通じ、彰考館総裁として「大日本史」編纂に従う。著「西山遺事」「大日本史賛藪」など。水戸黄門の諸国漫遊に従う「格さん」として脚色。(1656-1737)(『広辞苑』第6版による)
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8. |
「徳川光圀教訓」の底本である国立公文書館内閣文庫蔵「警箴叢彙」は、国立公文書館で見られますが、国立公文書館のサイトでは、まだ画像化されていないため、画像としては見ることができません。(2008年4月13日現在) |
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9. |
句読点をつけた本文を示しておきます。
德川光圀敎訓
(西山樣より若殿え被仰進候御傳言之控)
一、御讀書之儀、前々より度々被仰進候。御身之益に罷成候段不及申。文字御働候得ば、當方御用御足候て、御老年之後、甚御慰に相成候事に候。仍之御精御出候樣思召候事。
一、御武藝之儀、何も少し御心懸不被遊候ては不叶儀、就中槍は長道具にて取扱難成物に候。尤大將之御自身之働に不及、御馬之先にて、諸士の槍を合候事を被成御覽候得共、如何樣之事にて、御自身槍を御取候事有之間敷ものにて無之候。其節日頃御稽古無之、あいかふり等御手に入不申上ば、御用に立不申候間、能程に御習候樣にと思召候事。
一、劍術は御身之圍に罷成候儀、御心得不被成候て不叶儀。就中居合被成御習御尤之事に候。居合拔之上にては、或は四寸のつまり、屏風水風呂の内にて、四尺の刀を拔などと申事有之候得共、夫は所作上にて、少も御用立不申儀、居合者拔口一種の物にて候。拔口を致吟味候て、拔打の當りつよく候ため、縱へば、二打三打にて參候處、拔口能當り強候得ば、一打にて參候物、是許多の益に罷成候。御稽古被成候樣にと思召候事。
一、大兵は三四尺之刀をも自由に振廻し、用を成事に候得ば、大抵之者は大刀は手に餘り、甚無益の事也。大殿樣御若年の頃より、御試被遊候に付、二尺五寸よりうへの御刀は、御手に餘り候。若殿樣には、以後何程御長成可被遊も難計、被思召候得共、長刀は必御好に被成間敷候。御脇指は一尺七八寸より一尺迄、御刀は二尺三四寸迄に可被遊候。だてを被成、長刀御被指成度被思召候はゞ、何程にても空鞘を可被仰付候。身は必右之寸尺に御心得可被成事。 一、軍法は大將御存知之無く候て不叶儀。万一御用御承御出馬之時、士卒之被召仕樣、備立御存不被成候ては不相成儀。一騎前之御働は、匹夫之勇とて御用に立不申儀。今時之軍法者、人をたぶらかし候樣成儀、猶以無用之至。栗田七兵衛御近習に罷在、謙信流之軍法覺へ候て罷在候事に候間、軍法一通りは、七兵衛江御聞被成可然と思召候事。
一、軍學之根本は、七書より外は無之候。大殿樣御若年之時分、七書を御讀被成、大要御心得御座被成候。三略六鞱其外何も軍學之道理を説述之書にて候得共、就中孫子呉子を專要と致事に候。然共孫子呉子軍學は巧なりといへども、行跡は不足學。縱ば上州筋夜討強盗之類、それぞれの法有之。續松のふり樣、別而夜討之大切とする事也。強盗の中にも、頭立たる老巧之者に、續松をふらする事也。ふり樣惡敷時は働き不宜。此故に續松の役を肝要として、防者の方よりも、續松ふりを目懸討取樣に致事。是等は武士の心得に罷成候事にて、夜討強盗之所爲にも、能事は無きにはあらず。然共夜討強盗は大なる惡事也。孫子呉子も如此にて可取所を取、可捨所を捨候樣に、御心得可被成候事。
一、常々算盤を御習、算勘を御心得候樣にと被仰進候儀。役人に被相成候御身にても無之、何故と可被思召候得共、算數御存無之候ては、備立人數之配樣不相成ものに候。たとへば三百坪一段之場に、騎馬之侍何程被立申候と申事、御馬上にて御一覽の内にて、積り被成候樣無之候ては、忙敷時節急用之間に合不申物に候。尤軍學備立心得之者、御側に可罷在候得共、いか樣の事にて其者不罷在時は、御用缺申候。依之御自身御心得不被成候て不叶儀。大殿樣には御若年之時より地坪被附御心、何段何町之場所即時に被成御覽候て、常々御心懸被成候樣に被成度思召候事。 一、大將の寶は、堅固なる城郭さねよき甲冑、此二ツより外は無之候。然共城郭甲冑外にて有之物にて無之候。常々被召仕候諸士、即城郭甲冑に御座候。何程さねよき甲冑を著、堅固成城郭に籠候ても、士卒心離れ候ては、用に立不申候。士卒合心之時は、何程之城郭甲冑にもまさり候。縱へば人の身近き寶は、刀脇指に過たる物は無之。然共鞘はしりて手足を切事も有之。士卒も如此にて、御身の守に罷成寶に候得共、鞘はしり怪我をする事なき樣に、人を御見立候て被召仕候事肝要に候。畢竟之所御恩に感じ申候者、刀脇指の身の守に罷成候ごとく、怨をふくみ候へば、鞘はしり怪我をするごとく候間、御恩に感じ怨をふくみ不申樣、常々可被召仕候事。
一、御家中諸士の筋目を御存知被遊候樣に、御心懸可被成候。縱へば駿河以來 源威公之御付人四十九人之末は誰々、其外、 源威公御代、 大殿樣以來、被召仕候古參新參之差別、由緒來歴御存知被遊候樣に可被成候。あまた書記被置候物之有之候。御望に被思召候はゞ、可被進候間被成御覽、又は人の物語を被成御聞、御存知被置候樣にと思召候事。 一、常々御身うみ不申樣御身持可被成候。大殿樣御若年より御身持健に被遊候故、御老年之後迄も、萬一いか樣の時と申、大寒大暑に野陣を御張被成候ても、少も御いたみ被成候事は無之樣に、御身持被成候。御身は習しの物に候間、健に被爲成候樣に御心懸可被成候。大殿樣は、三木別所屋敷にて御誕生、御五歳迄は柵町に被成御座、杉と申乳母、らいと申婆々、庄九郎と申御草履取、男女三人より外御召仕不被成。被召上物なども、隨分輕く御育被遊候所、御家督を御取被成、三十年御政務を被成、今以御息災に被成御座候間、此段を能々御考被遊候樣にと思召候事。 右十件江戸交代之御暇に、西山え參上之節、大殿樣より若殿樣え被仰進候御傳言也。 辰八月六日 安積覺兵衛謹記 |
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