資料259 徳川慶喜「大政奉還の上表文」



        大政奉還の上表文                   德 川 慶 喜 

○十月十四日德川慶喜奏聞
臣慶喜謹而皇國時運之沿革ヲ考候ニ昔 王綱紐ヲ解キ相家權ヲ執リ保平之亂政權武門ニ移テヨリ祖宗ニ至リ更ニ 寵眷ヲ蒙リ二百餘年子孫相承臣其職ヲ奉スト雖モ政刑當ヲ失フコト不少今日之形勢ニ至候モ畢竟薄德之所致不堪慚懼候況ヤ當今外國之交際日ニ盛ナルニヨリ愈 朝權一途ニ出不申候而ハ綱紀難立候間從來之舊習ヲ改メ政權ヲ 朝廷ニ奉歸廣ク天下之公議ヲ盡シ 聖斷ヲ仰キ同心協力共ニ 皇國ヲ保護仕候得ハ必ス海外萬國ト可並立候臣慶喜國家ニ所盡是ニ不過ト奉存候乍去猶見込之儀モ有之候得ハ可申聞旨諸侯ヘ相達置候依之此段謹而奏聞仕候以上 

(訓読文)
○十月十四日德川慶喜奏聞
臣慶喜、謹んで皇國時運の沿革を考へ候に、昔、王綱紐を解き、相家權を執り、保平の亂、政權武門に移りてより、祖宗に至り、更に寵眷を蒙り、二百餘年子孫相承、臣其の職を奉ずと雖も、政刑當を失ふこと少なからず、今日の形勢に至り候も、畢竟、薄德の致す所、慚懼に堪へず候。況んや當今、外國の交際日に盛んなるにより、愈々朝權一途に出で申さず候ひては、綱紀立ち難く候間、從來の舊習を改め、政權を朝廷に歸し奉り、廣く天下の公議を盡くし、聖斷を仰ぎ、同心協力、共に皇國を保護仕り候得ば、必ず海外萬國と並び立つ可く候。臣慶喜、國家に盡くす所、是に過ぎずと存じ奉り候。去り乍ら、猶見込みの儀も之れ有り候得ば、申し聞く可き旨、諸侯へ相達し置き候。之れに依りて此の段、謹んで奏聞仕り候。以上
 

(読みがな付き訓読文)
○十月十四日德川慶喜奏聞
臣慶喜(よしのぶ)(つつし)んで皇國時運の沿革(えんかく)を考へ候(そうろう)に、昔、王(おうこう)(ちゅう)を解き、相家(しょうか)(けん)を執(と)り、保平(ほうへい)の亂、政權(せいけん)武門に移りてより、祖宗(そそう)に至り、更に寵眷(ちょうけん)を蒙(こうむ)り、二百餘年子孫相承(そうしょう)、臣其の職を奉(ほう)ずと雖(いえど)も、政刑(せいけい)(とう)を失ふこと少なからず、今日の形勢に至り候(そうろう)も、畢竟(ひっきょう)、薄德(はくとく)の致す所、慚懼(ざんく)に堪(た)へず候。況(いわ)んや當今(とうこん)、外國の交際日に盛んなるにより、愈々(いよいよ)朝權一途(ちょうけんいっと)に出(い)で申さず候(そうら)ひては、綱紀(こうき)立ち難(がた)く候間(そうろうあいだ)、從來の舊習を改め、政權を朝廷に歸(き)し奉(たてまつ)り、廣く天下の公議を盡くし、聖斷を仰ぎ、同心協力、共に皇國を保護仕(つかまつ)り候得(そうらえ)ば、必ず海外萬國(ばんこく)と並び立つ可(べ)く候(そうろう)。臣(しん)慶喜、國家に盡くす所、是(これ)に過ぎずと存じ奉(たてまつ)り候。去(さ)り乍(なが)ら、猶(なお)見込みの儀も之(こ)れ有り候得(そうらえ)ば、申し聞く可(べ)き旨(むね)、諸侯へ相達(あいたっ)し置き候(そうろう)。之(こ)れに依りて此の段、謹んで奏聞(そうもん)(つかまつ)り候。以上
 

(現代語訳)
○十月十四日の徳川慶喜の奏聞。
天皇の臣である、この慶喜が、謹んで日本の歴史的変遷を考えてみますと、昔、天皇の権力が失墜し藤原氏が権力をとり、保元・平治の乱で政権が武家に移ってから、私の祖先徳川家康に至り、更に天皇の寵愛を受け、二百年余りも子孫が政権を受け継ぎました。そして私がその職についたのですが、政治や刑罰の当を得ないことが少なくありません。今日の形勢に立ち至ってしまったのも、結局は私の不徳の致すところであり、全く恥ずかしく、また恐れ入る次第であります。まして最近は、外国との交際が日に日に盛んになり、ますます政権が一つでなければ国家を治める根本の原則が立ちにくくなりましたから、従来の古い習慣を改め、政権を朝廷に返還申し上げ、広く天下の議論を尽くし、天皇のご判断を仰ぎ、心を一つにして協力して日本の国を守っていったならば、必ず海外の諸国と肩を並べていくことができるでしょう。私・慶喜が国家に尽くすことは、これ以上のものはないと存じます。しかしながら、なお、事の正否や将来についての意見もありますので、意見があれば聞くから申し述べよと諸侯に伝えてあります。そういうわけで、以上のことを謹んで朝廷へ申し上げます。以上
 


  (注) 1.  上記の徳川慶喜「大政奉還の上表文」の本文は、『国立国会図書館デジタルコレクション』に入っている『法令全書』慶応3年(内閣官報局、明治20年発行)によりました。「大政奉還の上表文」は、 6/383 にあります。    
    2. 訓読文・現代語訳は、参考書をもとに引用者が記したものです。お気づきの点を教えていただければ幸いです。    
    3. ○大政奉還(たいせい・ほうかん)=慶応3年10月14日(1867年11月9日)徳川第15代将軍慶喜(よしのぶ)が政権を朝廷に返上したこと。
○徳川慶喜(とくがわ・よしのぶ)=徳川第15代将軍(在職1866-1867)。徳川斉昭の7男。初め一橋家を嗣ぎ、後見職として将軍家茂を輔佐、1866年(慶応2)将軍職を継いだが幕末の内憂外患に直面して、翌年遂に大政を奉還。68年鳥羽伏見の戦で敗れ、江戸城を明け渡して水戸に退き、駿府に隠棲。のち公爵。(1837-1913)                                    
           
                         (以上、『広辞苑』第6版による)
   
    4. 国立国会図書館の『近代日本人の肖像』の中に、徳川慶喜の肖像があります。    
    5.  『茨城県立歴史館』のホームページに、「徳川慶喜Q&A」があり、その中に、「IV 徳川慶喜大政奉還する」があって参考になります。(2012年6月22日)    
    6. 平成13年度第18回水戸学講座講録『水戸先哲の不朽の名文  III』(常磐神社社務所、平成14年5月1日発行)に、但野正弘氏の「徳川慶喜公『大政奉還上表』」があります。(2013年2月9日)    








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