資料258 髙倉長八郎次・髙倉信太郎邦事蹟頌徳之碑



              

 

 

    

髙倉長八郎 
髙倉信太郎邦凞      

 

 

 

                      事蹟頌徳之碑

 

 

 

     

 

 

 

 

 

 

 

 

国家社会の発展はすべて人間の自覚と努力にまつ わが郷土の先覚髙倉長八郎凞次は正に

 

 

 

その人である 彼は司命丸の創製者髙倉伴介凞景の子として文政四年五月一日に生れた

 

 

 

長じて家をつぎよく父の遺訓を守り 家業を進め人を済う 水戸藩はこれを郷士とし大山

 

 

 

守を命じ深く藩政を助けしめた 時に水戸の藩論二分し勤王佐幕の対立起るや次は前者

 

 

 

にくみし金子孫二郎と結び これを通じて髙橋多一郎斉藤監物蓮田市五郎鯉渕要人らと交

 

 

 

り或はその協議を助け或は金品を寄せて桜田義挙を達成せしめた ついで筑波の擧兵ある

 

 

 

や全力をあげてこれにつくし多大の金穀を以てこれを支援したという ために身辺も危険

 

 

 

となり家を離るること三年その間香川敬三と京都に赴き天下の志士と交り且これを援助し

 

 

 

た 正に維新回天の蔭の力というべきである 明治の初常磐神社成るや率先して其境内に

 

 

 

鎮霊社を創め同志の霊を慰めた 晩年は自適して明治十一年六月五十八歳で卒した 長男

 

 

 

信太郎邦は父の志をつぎ河和田村長縣会議員となりまた郵便局を開いて長となった 赤

 

 

 

塚駅の敷地もその寄附するところである今ここに碑を立て功を録するのは先般次が回天

 

 

 

神社に合祀されたる機に民間志士の志を明かにし後世の奮起することを望むためである

 

 

 

これを読む人々よ 立って先人に習って世のため人のために勇往邁進せられんことを

 

 

 

     昭 和 四 十 五 年 十 一 月

 

 

 

                          撰 文    文 学 博 士     肥  後  和  男

 

 

 

 



 
    (頌徳碑の傍らに建つ頌詞の碑の碑文)

 

君は水戸藩領河和田の産にして その人となり

 

 

は極めて純粋なり 時恰も尊皇攘夷佐幕開港の

 

 

論大いに興り国内騒然たり 水戸藩の学者志士 

 

 

藤田東湖 会沢正志斎 髙橋多一郎 金子孫次

 

 

郎 林忠左衛門 斎藤監物 蓮田市五郎等と交

 

 

り深くその尊皇思想に感動し身命を賭し資材の

 

 

限りを尽くしてこれが活動を支援す 桜田義挙

 

 

決行の密議は実に君の邸宅に於て行なわれたる

 

 

なり 筑波の義挙に当りては数千両の金円と数

 

 

百俵の米穀とをおくる 為めに君は刺客の狙う

 

 

所となり 地下潜行三ヶ年の辛苦を嘗む かく

 

 

て明治回天の大御代を迎うるや殉難志士達の為

 

 

めに率先奔走 鎮霊社を造建慰霊祭を執行す

 

 

その他社会公共に尽瘁する所頗る多くまさに後

 

 

世の亀鑑とすべきなり 謹みて茲に頌詞を奉る

 

 

 昭和四十四年十一月三日

 

 

    茨城県神社庁長  塙 瑞比古

 

 



 

 

 

    
  (注) 1.  上記の「髙倉長八郎凞次(ひろつぐ)・髙倉信太郎邦凞(くにひろ)  事蹟頌徳之碑」(高倉父子頌徳碑)は、水戸市河和田3丁目の司命堂薬局(司命堂製薬所)の傍らに、昭和46年5月に建てられました。(髙倉長八郎凞次・髙倉信太郎の「髙倉」は、普通「高倉」と書かれていますが、本来は「髙倉」だそうです。)  
    2.  碑は、当時の総理大臣佐藤栄作氏の揮毫になる「愛國」の題辞と、文学博士肥後和男氏の撰文による碑文からなっています。(碑文の公開にあたっては司命堂薬局様のご了解を得ました。)  
    3.  碑文上部の題辞は、「愛國」と横書きで左から書かれ、その下部に、「内閣総理大臣 佐藤榮作書」と書かれています。
 碑文は、最初に「髙倉長八郎凞次」「髙倉信太郎邦凞」のお二人の名前が縦書きで並べて書いてあり、その下に「事蹟頌徳之碑」と書いてあります。本文は1行40字、全14行、その後に年月日と撰者の名前が書いてあります。
 上に引いた碑文の改行は、碑文の通りにしてあります。
 題辞や標題・日付け・撰者名等を除いた本文の実字数は、542字です。
(40字×14行-16字(空字)-2字(最終行余白)=542字)
 
    4.  碑陰には、「頌徳碑建設奉賛者御芳名」が刻してあり、名誉顧問・建設協賛会長・副会長・顧問、建設委員会会長・副会長・事務局長・会計主任・建碑推進者等の氏名の外、髙倉泰氏以下350余名の寄附者の氏名が刻されています。そして最後に、「昭和四十六年五月頌徳碑建設委員会建之」とあります。  
    5.  〇佐藤栄作(さとう・えいさく)=政治家。山口県出身。岸信介の弟。東大卒。吉田茂政権のもとで各省大臣を歴任。1964~72年、3次にわたり自民党内閣を組織。在任中に沖縄返還が実現。ノーベル賞。(1901-1975)(『広辞苑』第6版による)
 〇肥後和男(ひご・かずお)=歴史学者。1899年(明治32)、茨城県生まれ。東京高等師範学校を経て、京都帝国大学史学科を卒業。東京文理科大学・東京教育大学の教授を務めた。著に「日本文化史概説」「神話と民俗」「肥後和男著作集」など。(1899-1981) (この項は、『はてなダイアリー』によりました。詳しくは、『はてなダイアリー』の「肥後和男」の項をご覧下さい。)
 
    6.  碑の右隣に、塙瑞比古氏の撰文による頌詞の碑が建てられています。上に掲げたこの文章の改行も、碑文の通りにしてあります。        
    7.  碑の大きさは、注の11に掲げた武石東二氏の「髙倉氏の頌徳碑」によれば、「頌徳碑」が高さ220cm、幅98cm、厚さ12cm、隣に立つ「頌詞の碑」が高さ107cm、幅79cm、厚さ19cmです。  
    8.  『くすりの司命堂』というサイトに、「豪気な商人の物語」・「会社概要」というページがあり、そこに水戸藩以来の伝統の漢方薬「司命丸」の紹介があります。
 
残念ながら現在は見られないようです。(2017年11月3日) 
 『くすりの司命堂』というサイトは現在もあります。
(2023年1020日)
 
    9.  広島県福山市の「Aromacista」(アロマチスタ)というサイトに「吉岡薬局」があり、そこに「司命丸」が出ていますので、水戸の「司命丸」をここで引き継いで製造しているのでしょうか。
 「Aromacista」
 →「吉岡薬局」 
 →  漢方薬ー中成藥・家伝藥
 →司命丸
 
    10.  『東石メディカル事業部』というサイトに、「『司命丸』の歴史」というページがあり、そこで、江戸時代から明治時代にかけて司命丸が果たした歴史的な功績を記録した『ほまれ』(編集責任者・高堀宏幹、平成10年12月7日発行、平成16年12月7日増補再版)」を読むことができます。(『ほまれ』には、ここに掲げた頌徳碑と頌詞の碑の碑文も掲載されています。)
 残念ながらこちらも現在は見られないようです。(2017年11月3日)
 
    11.  水戸商工会議所の 『郷土いいとこ再発見』というサイトの「史跡」のところに、「司命丸髙倉父子顕彰碑」のページがあり、解説と碑の全景の写真、地図が出ています。       
    12.  生活情報誌『ぷらざ』県央版 vol.103、平成20年4月号(株式会社「ぷらざ茨城」発行)に、武石東二氏が『地元再発見 愛郷清話』〔第百三話〕でこの碑を取り上げ、「髙倉氏の頌徳碑」という題で紹介文を書いておられます。     
    13.  司命丸」の画像で検索すると、参考になる「司命丸」の画像が出て来ると思います。  

 
      
      
     
      
      
      
             
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