余が飜譯の標準 二 葉 亭 四 迷
飜譯は如何樣にすべきものか、其の標準は人に依つて各異ならうから、もとより一概に云ふことは出來ぬ。されば、自分は、自分が從來やつて來た方法について述べることゝする。一體、歐文は唯だ讀むと何でもないが、よく味うて見ると、自ら一種の音調があつて、聲を出して讀むと抑揚が整うてゐる。即ち音樂的(ミユージカル)である。だから、人が讀むのを聞いてゐても中々に面白い。實際文章の意味は、默讀した方がよく分るけれど、自分の覺束ない知識で充分に分らぬ所も、聲を出して讀むと面白く感ぜられる。これは確かに歐文の一特質である。 處が、日本の文章にはこの調子がない。一體にだらだらして、默讀するには差支へないが、聲を出して讀むと頗る單調(モノトナス)だ。啻(たゞ)に抑揚などが明らかでないのみか、元來讀み方が出來てゐないのだから、聲を出して讀むには不適當である。 けれども、苟(いやし)くも外國文を飜譯しようとするからには、必ずやその文調をも移さねばならぬと、これが自分が飜譯をするについて、先づ形の上の標準とした一つであつた。 そこで、コンマやピリオドの切り方などを研究すると、早速目に着いたのは、句を重ねて同じことを云ふことである。一例を擧ぐれば、マコーレーの文章などによくある in spite of の如きはそれだ。意味から云へば、二つとか三つとか、もしくは四つとかで十分であるものを、音調の關係からもう一つ云ひ添へるといふことがある。併し意味は既に云ひ盡してあるし、もとより意味の違つたことを書く譯には行かぬから、仕方なしに重複した餘計のことを云ふ。 これは語の上にもあることで、日本語の「やたらむしやう」などはその一例である。或は「強く嚴しく彼を責めた」とか、或は、「優しく角立たぬやうに説得した」とか云ふ類は、屢々歐文に見る同一例である。これらは凡て文章の意味を明らかにする以外、音調の關係からして、副詞を入れたいから入れたり、二つで充分に足りてゐる形容詞を、も一つ加へて三つとしたりするのである。コンマの切り方なども、單に意味の上から切るばかりでなく、文調の關係から切る場合が少くない。 されば、外國文を飜譯する場合に、意味ばかりを考へて、これに重きを置くと原文をこはす虞がある。須らく原文の音調を呑み込んで、それを移すやうにせねばならぬと、かう自分は信じたので、コンマ、ピリオドの一つをも濫りに棄てず、原文にコンマが三つ、ピリオドが一つあれば、譯文にも亦ピリオドが一つコンマが三つといふ風にして、原文の調子を移さうとした。殊に飜譯を爲始めた頃は、語數も原文と同じくし、形をも崩すことなく、偏(ひと)へに原文の音調を移すのを目的として、形の上に大變苦勞したのだが、さて實際はなかなか思ふやうに行かぬ。中にはどうしても自分の標準に合はすことの出來ぬものもあつた。で、自分は自分の標準に依つて譯する丈けの手腕がないものと諦らめても見たが、併しそれは決して本意ではなかつたので、其後とても長く形の上には、此の方針を取つてをつた。 處で出來上つた結果はどうか、自分の譯文を取つて見ると、いや實に讀みづらい、佶倔聱牙(きつくつごうが)だ。ぎくしやくとして如何にとも出來榮えが惡い。從つて世間の評判も惡い。偶々賞美して呉れた者もあつたけれど、おしなべて非難の聲が多かつた。併し私が苦心をした結果、出來損つたといふ心持を呑み込んで、此處が失敗してゐると指摘した者はなく、また、此處は何の位まで成功したと見て呉れた者もなかつた。だから、譽められても標準に無交渉なので嬉しくもなければ、譏られても見當違ひだから、何の啓發される所もなかつた。いはゞ、自分で獨り角力を取つてゐたので、實際毀譽褒貶以外に超然として、唯だ或る點に目を着けて苦勞をしてゐたのである。といふのは、文學に對する尊敬の念が強かつたので、例へばツルゲーネフが其の作をする時の心持は、非常に神聖なものであるから、これを飜譯するにも同樣に神聖でなければならぬ。就ては、一字一句と雖も、大切にせなければならぬやうに信じたのである。 併し乍ら、元來文章の形は自ら其の人の詩想に依つて異なるので、ツルゲーネフにはツルゲーネフの文體があり、トルストイにはトルストイの文體がある。其他凡そ一家をなせる者には各獨特の文體がある。この事は日本でも支那でも同じことで、文體は其の人の詩想と密着の關係を有し、文調は各自に異つてゐる。從つてこれを飜譯するに方つても或る一種の文體を以て何人にでも當て嵌める譯には行かぬ。ツルゲーネフはツルゲーネフ、ゴルキーはゴルキーと、各別にその詩想を會得して、嚴(きび)しく云へば、行住座臥、心身を原作者の儘にして、忠實に其の詩想を移す位でなければならぬ。是れ實に飜譯における根本的必要條件である。 今、實例をツルゲーネフに取つてこれを云へば、彼の詩想は秋や冬の相ではない、春の相である。春も初春でもなければ中春でもない、晩春の相である。丁度櫻花が爛熳と咲き亂れて、稍々散り初めようといふ所だ。遠く霞んだ中空に、美しくおぼろおぼろとした春の月が照つてゐる晩を、兩側に櫻の植ゑられた細い路を辿るやうな趣がある。約言すれば、艶麗の中にどつか寂しい所のあるのが、ツルゲーネフの詩想である。そして、其の當然の結果として、彼の小説には全體に其の氣が行き渡つてゐるのだから、これを飜譯するには其の心持を失はないやうに、常に其の人になつて書いて行かぬと、往々にして文調にそぐはなくなる。此の際に在つては徒らにコンマやピリオド、又は其の他の形にばかり拘泥してゐてはいけない。先づ根本たる詩想をよく呑み込んで、然る後、詩形を崩さずに飜譯するやうにせなければならぬ。 實際自分がツルゲーネフを飜譯する時は、力めて其の詩想を忘れず、眞に自分自身其の詩想に同化してやる心算であつたのだが、どうも旨く成功しなかつた。成功しなかつたとは云へ、標準は矢張り其處にあつたのである。唯だ、自分が其の間に種々と考へて見ると、一體、自分の立てた標準に法つて飜譯することは、必ずしも出來ぬと斷言はされぬかも知れぬが、少くとも自分に取つては六ケ敷いやり方であると思つた。何故といふに、第一自分には日本の文章がよく書けない、日本の文章よりはロシアの文章の方がよく分るやうな氣がする位で、即ち原文を味ひ得る力はあるが、これをリプロヂュースする力が伴うてをらないのだ。 で、外に飜譯の方法はないものかと種々研究して見ると、ジュコーフスキー一流のやり方が面白いと思はれた。ジュコーフスキーはロシアの詩人であるが、寧ろ飜譯家として名を成してゐる。バイロンを多く譯してゐるが、それが妙に巧い。尤も當時のロシアは、其の社會状態が小バイロンを盛んに生んだ時代で、殊にジュコーフスキーの如きは、鐵中錚々たるものであつたから、求めずしてバイロンの詩想と合致するを得て、大に成功したのかも知れぬが、兎に角其の譯文は立派なロシア文となつてゐる。 けれども、これをバイロンの原詩と比べて見ると、其の言ひ方が大變違ふ、原文の仄起を平起としたり、平起を仄起としたり、原文の韻のあるのを無韻にしたり、或は原文にない形容詞や副詞を附けて、勝手に剪裁してゐる。即ち多くは原文を全く崩して、自分勝手の詩形とし、唯だ意味だけを譯してゐる。處が其の兩者を讀み比べて見るとどうであらう。英文は元來自分には少しおかつたるい方だから、餘り大口を利く譯には行かぬが、兎に角詩よりも譯の方が、趣味も詩想もよく分る、原文では十遍讀んでも分らぬのが、譯の方では一度で種々の美所が分つて來る。しかも其のイムプレッションを考へて見ると、如何にもバイロン的だ。即ちこれを要するに、覺束ない英語でバイロンを味ふよりは、ジュコーフスキーの譯を讀む方が勞少くして得る所が多いのである。 其處で自分は考へた、飜譯はかうせねば成功せまい、自分のやり方では、形に拘泥するの結果、筆力が形に縛られるから、讀みづらく窮屈になる。これは宜しくジュコーフスキーの如く、形は全く別にして、唯だ原作に含まれたる詩想を發揮する方がよい。とかうは思つたものゝ、さて自分は臆病だ、そんならと云うてこれを決行することが出來なかつた。何故かと云ふに、ジュコーフスキー流にやるには、自分に充分の筆力があつて、よしや原詩を崩しても、その詩想に新詩形を附することが出來なくてはならぬのだが、自分にはこの筆力が覺束ないと思はれたからだ。從來やり來つた飜譯法で見ると、よし成功はしない乍らも、形は原文に捉つてゐるのだから、非常にやり損ふことがない。けれども、ジュコーフスキー流にやると、成功すれば光彩燦然たる者であるが、もし失敗したが最後、これほど見じめなものはないのだから、餘程自分の手腕を信ずる念がないとやりきれぬ。自分はさすがにそれほど大膽ではなかつたので、どうも險呑に思はれて斷行し得なかつた。で、依然舊飜譯法でやつてゐたが…… 併しそれは以前自分が眞面目な頭で、飜譯に從事した頃のことである。近頃のは、いやもうお話しにならない。 (明治39年10月「成功」所載)
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