資料239  木曾の最期(『平家物語』巻第九より)




        木 曾 の 最 期
                  『平家物語』巻第九より  

 木曾は信濃を出でしより、巴(ともゑ)・款冬(やまぶき)とて、二人の美女を具せられたり。款冬は勞(いたはり)あつて都に留りぬ。中にも、巴は色白う髮長く、容顔まことに美麗なり。究竟(くつきやう)の荒馬乘(あらむまのり)の惡所(あくしよ)落し、弓矢打物取つては、如何なる鬼にも神にもあふと云ふ一人當千(いちにんとうぜん)の兵(つはもの)なり。されば、軍(いくさ)と云ふ時は、札(さね)よき鎧著せ、強弓(つよゆみ)・大太刀持たせて、一方の大將に向けられけるに、度々(どゞ)の高名(かうみやう)肩を雙(なら)ぶる者なし。されば、今度(このたび)も、多くの者落ち失せ討たれける中に、七騎が中までも、巴は討たれざりけり。
 木曾は長坂を經て、丹波路へとも聞ゆ、龍華越(りうげごえ)にかゝつて又北國へとも聞えけり。かゝりしかども、今井が行末の覺束なさに、取つて返して、勢多の方へぞ落ち行き給ふ。今井の四郎兼平も、八百餘騎にて勢田を堅めたりけるが、五十騎ばかりに討ちなされ、旗をば巻かせて持たせつゝ、主(しう)の行方の覺束なさに、都の方へ上る程に、大津の打出(うちで)の濱にて、木曾殿に行き合ひ奉る。中一町ばかりより、互に其れと見知つて、主從、駒を早めて寄り合うたり。木曾殿、今井が手を把(と)つて宣ひけるは、義仲、六條河原にて、如何にもなるべかりしかども、汝が行方の覺束なさに、多くの敵(かたき)に後(うしろ)を見せて、これまで遁れたるは如何にと宣へば、今井の四郎、御諚(ごじやう)まことに忝う候。兼平も勢田にて討死仕るべう候ひしかども、御行方の覺束なさに、これまで遁れ參つて候と申しければ、木曾殿、さては契(ちぎり)は未だ朽ちせざりけり。義仲が勢(せい)、山林に馳せ散つて、此の邊にも控へたるらんぞ。汝が旗、揚げさせよと宣へば、巻いて持たせたる今井が旗、差上げたり。これを見付けて、京より落つる勢ともなく、又勢田より參る者ともなく、馳集まつて、程なく三百騎ばかりになり給ひぬ。木曾殿、斜(なのめ)ならずに悦びて、此の勢にては最期(さいご)の軍(いくさ)、一軍(ひといくさ)などかせざるべき。あれに、しぐろうて見ゆるは、誰(た)が手やらん。甲斐の一條の次郎殿の御手とこそ承つて候へ。勢如何程あるらん。六千餘騎と聞え候。さては互によい敵(かたき)、同じう死ぬるとも、大勢の中へ驅け入り、よい敵(かたき)に逢うてこそ討死をもせめとて、眞先にぞ進み給ふ。木曾殿、其の日の装束には、赤地の錦の直垂に、唐綾縅の鎧著て、いか物作(づくり)の太刀を帶(は)き、鍬形打つたる甲の緒を縮(し)め、二十四差いたる石打(いしうち)の矢の、其の日の軍(いくさ)に射て、少々殘つたるを、頭高(かしらだか)に負ひなし、滋籐の弓の眞中取つて、聞ゆる木曾の鬼蘆毛と云ふ馬に、金覆輪の鞍を置いて乘つたりけるが、鐙(あぶみ)蹈張(ふんば)り立上り、大音聲を揚げて、日來(ひごろ)は聞きけんものを、木曾の冠者(くわんじや)、今は見るらん、左馬の頭兼伊豫の守朝日の將軍源の義仲ぞや。甲斐の一條の次郎とこそ聞け。義仲討つて、兵衛の佐に見せよやとて、喚(をめ)いて驅く。一條の次郎これを聞いて、只今名のるは、大將軍ぞや。餘すな者ども、漏すな若黨、討てやとて、大勢の中に取籠(とりこ)めて、われ討取らんとぞ進みける。木曾三百餘騎、六千餘騎が中へ驅け入り、竪樣(たてざま)横樣(よこざま)蜘蛛手(くもで)十文字に驅け破つて、後(うしろ)へつと出でたれば、五十騎ばかりになりにけり。
 そこを破つて行く程に、土肥(とひ)の次郎實平、二千餘騎で支へたり。そこをも破つて行く程に、あそこにては四五百騎、こゝにては二三百騎、百四五十騎、百騎ばかりが中を、驅け破(わ)り驅け破(わ)り行く程に、主從五騎にぞなりにける。五騎が中(うち)までも、巴は討たれざりけり。木曾殿、巴を召して、己(おのれ)は女なれば、これよりとうとう何地(いづち)へも落ちゆけ。義仲は討死をせんずるなり。若し人手にかゝらずば、自害をせんずれば、義仲が最期の軍(いくさ)に、女を具したりなど云はれん事、口惜しかるべしと宣へども、なほ落ちも行かざりけるが、餘りに強う云はれ奉つて、あつぱれ好からう敵(かたき)の出で來(こ)よかし。木曾殿に、最期の軍(いくさ)して見せ奉らんとて、控へて敵を待つ所に、こゝに武藏の國の住人、御田(おんだ)の八郎師重と云ふ大力(だいぢから)の剛(かう)の者、三十騎ばかりで出で來(きた)る。巴其の中へ破(わ)つて入り、先づ御田の八郎に押並べ、むずと組んで引落し、我が乘つたりける鞍の前輪に押付けて、ちつとも動(はたら)かさず、頸ねぢ切つて捨ててんげり。其の後物の具脱棄(ぬぎす)て、東國の方へぞ落行きける。手塚の太郎討死す。手塚の別當落ちにけり。
 木曾殿今井の四郎只主從二騎になつて、宣ひけるは、日來(ひごろ)は何(なに)とも覺えぬ鎧が、今日は重うなつたるぞやと宣へば、今井の四郎申しけるは、御身も未だ羸(つか)れさせ給ひ候はず、御馬も弱り候はず。何によつて、一領の御著背長(きせなが)を、俄に重うは思し召され候ふべき。それは、御方(みかた)に續く勢が候はねば、臆病でこそ、さは思し召し候ふらめ。兼平一騎をば、餘(よ)の武者千騎と思召し候ふべし。こゝに、射殘したる矢七つ八つ候へば、暫く防矢(ふせきや)仕り候はん。あれに見え候ふは、粟津の松原と申し候。君は、あの松の中へ入らせ給ひて、靜に御自害候へとて、打つて行く程に、又新手(あらて)の武者五十騎ばかりで出で來たる。兼平はこの御敵(かたき)暫く防ぎ參らせ候ふべし。君はあの松の中へ入らせ給へと申しければ、義仲、六條河原にて如何にもなるべかりしかども、汝と一所(いつしよ)で如何にもならん爲にこそ、多くの敵(かたき)に後(うしろ)を見せて、これまで遁れたんなれ。所々(ところどころ)で討たれんよりも、一所(いつしよ)でこそ討死をもせめとて、馬の鼻を雙べて、既に驅けんとし給へば、今井の四郎、急ぎ馬より飛んで下(お)り、主(しう)の馬の水つきに取付き、涙をはらはらと流いて、弓矢取は、年來(としごろ)日來(ひごろ)如何なる高名候へども、最期に不覺しぬれば、永き瑕(きず)にて候ふなり。御身も羸(つか)れさせ給ひぬ、御馬も弱つて候。云ふがひなき人の郎等に、組落されて討たれさせ給ひなば、さしも日本國に鬼神(おにがみ)と聞えさせ給ひつる木曾殿をば、何某(なにがし)が郎等の、手に懸けて討ち奉つたりなんど申されん事、口惜しかるべし。只理(り)を枉げて、あの松の中へ入らせ給へと申しければ、木曾殿、さらばとて、只一騎粟津の松原へぞ驅け給ふ。
 今井の四郎取つて返し、五十騎ばかりが勢の中へ驅け入り、鐙踏張(ふんば)り立上り、大音聲を揚げて、遠からん者は音(おと)にも聞け、近からん人は目にも見給へ。木曾殿の乳母子(めのとご)に、今井の四郎兼平とて、生年三十三に罷りなる。さる者ありとは、鎌倉殿までも知し召したるらんぞ。兼平討つて、兵衛の佐殿の御見參に入れよやとて、射殘したる八筋の矢を、指攻(さしつ)め引攻(ひきつ)め散々に射る。死生(ししやう)は知らず、やにはに敵(かたき)八騎射落し、其の後(のち)太刀を拔いて、斬つて廻るに、面(おもて)を合(あは)する者ぞなき。只射取れや射取れとて、差攻(さしつ)め引攻(ひきつ)め散々に射けれども、鎧よければ裏かかず、開間(あきま)を射ねば手も負はず。
 木曾殿は只一騎、粟津の松原へ驅け給ふ。頃は正月廿一日、入相(いりあひ)ばかりの事なるに、薄氷は張つたりけり。深田(ふかた)ありとも知らずして、馬をさつと打入れたれば、馬の首(かしら)も見えざりけり。あふれどもあふれども、打てども打てども動(はたら)かず。かゝりしかども、今井が行方の覺束なさに振仰(ふりあふ)のき給ふ所を、相模の國の住人三浦の石田の次郎爲久追つ懸(かゝ)り、よつ引(ぴ)いてひやうど放つ、木曾殿、内甲(うちかぶと)を射させ、痛手なれば、甲(かぶと)の眞向(まつかう)を馬の首(かしら)に押當てて俯(うつぶ)し給ふ所を、石田が郎等二人落合ひて、既に御頸をば賜はりけり。やがて首(くび)をば太刀の鋒(さき)に貫(つらぬ)き、高くさし上げ、大音聲を揚げて、此の日來(ひごろ)日本國に鬼神と聞えさせ給ひつる木曾殿をば、三浦の石田の次郎爲久が、討ち奉るぞやと名のりければ、今井の四郎は軍しけるが、これを聞いて、今は誰をかばはんとて、軍をばすべき。これ見給へ、東國の殿ばら、日本一の剛(かう)の者の、自害する手本よとて、太刀の鋒(きつさき)を口に含み、馬より倒(さかさま)に飛落ち、貫(つらぬ)かつてぞ失せにける。



  (注) 1.  上記の「義仲の都最期」の本文は、『昭和校訂 流布本平家物語』(野村宗朔校訂、武蔵野書院 昭和25年6月10日複刊印刷、昭和25年6月15日訂正1版)によりました。             
    2.   緒言によれば、上記の平家物語は、元和7年刊行の片仮名整版の流布本平家物語を底本とし、寛永3年(刊記なし、推定)及び万治2年の片仮名整版本、寛永3年、正保3年、明暦2年の各平仮名整版本、片仮名古活字本、長門本(明治39年翻刻本)、延慶本(昭和10年翻刻本)を参照して校訂したもので、寛文以降の諸本は取らなかった、とのことです。           
    3.   本文中の平仮名の「く」を縦に伸ばした形の繰り返し符号は、普通の仮名に直してあります。(「とうとう」「はらはら」「あふれどもあふれども」「打てども打てども」)
 なお、引用者の判断で、読みの振り仮名を補ったところがあります。(「一騎當千(いちにんとうぜん)」「兵(つはもの)」「高名(かうみやう)」「今度(このたび)」など)  
   
    4.  本文中にも触れてあるように、今井の四郎兼平は木曾義仲の乳母子(めのとご)でした。乳母子との間係は、実の兄弟以上だといわれます。義仲は、今井と同じ場所で戦って最期を共にしようとしたのでしたが、今井は、義仲が取るに足りない誰かの家来に討たれて最期を遂げるのを避けるために、近くの松原で立派に自害するよう促します。今井が敵が近づくのを防いでいる間に、義仲はただ一騎、粟津の松原へ馬を走らせるのですが、馬を薄氷のはった深田に踏み入れて、身動きが取れなくなってしまいます。そして、義仲が今井の行方の覚束なさに思わず振り返ったときに、義仲は石田の次郎に内甲を射られてしまうのです。振り返った義仲の目に、今井の姿が映ったでしょうか。まことに哀れ深い物語であります。    
    5.  〇「木曾義仲(きそ・よしなか)=(木曾山中で育ったからいう)源義仲の異称。
 〇源義仲(みなもと・の・よしなか)=平安末期の武将。為義の孫。2歳の時、父義賢(よしかた)が義平に討たれた後、木曾山中で育てられ、木曾次郎(義仲)という。1180年(治承4)以仁王(もちひとおう)の令旨を奉じて挙兵。平通盛らを越前に破り、平維盛を礪波山(となみやま)に夜襲し、平氏を西海に走らせて京都に入り、84年(寿永3)征夷大将軍に任ぜられたが、範頼・義経の軍と戦って敗れ、近江粟津で戦死。(1154~1184)
 〇巴(ともえ)=平安末期・鎌倉初期の女性。木曾の豪族中原兼遠の女(むすめ)。今井兼平の妹。武勇すぐれた美女で、源義仲の愛妾、また武将として最後まで随従。義仲の戦死後は和田義盛に嫁し、その敗死後、尼となって越中に赴いたという。巴御前。生没年未詳。(以上、『広辞苑』第6版による)
   
    6.  フリー百科事典『ウィキペディア』「源義仲」の項があります。    
    7.  『国立国会図書館デジタルコレクション』で、慶長年間に出版された『平家物語』が、画像で見られます。
 『国立国会図書館デジタルコレクション』
 →   『平家物語』(巻九) 
「木曽の最期」は 19~27 / 98)
   
    8.   『平家物語』の種々の本文は、『菊池眞一研究室』で読むことができます。ぜひご覧ください。            
    9.   『風のきた道─清盛慕情─』というサイトがあって、ここに平家物語の解説や全文の現代語訳、その他があって参考になります。
   「平家物語全文現代語訳」「平氏系図」「平清盛年表」「平家物語登場人物総覧」「平家物語和歌総覧」 その他
 (現在、リンクが繋がらないようです。2012年6月16日)
   
    10.  『樹陰読書』(…平家物語と中世日本を眺める處…)というサイトがあります。
 (現在、リンクが繋がらないようです。2017年10月28日)
   
11.    『Zaco's Page』というサイトに、「国語の先生の為のテキストファイル集」というページがあり、そこに『平家物語』の本文が入っています。
『Zaco's Page』
 →「国語の先生の為のテキストファイル集」
  (2012年5月25日付記)  







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