資料225 雪山童子(『三宝絵』より)




        雪 山 童 子     『三宝絵』より

 昔独ノ人有テ雪山ニ住ミキ。名付テ雪山童子ト云フ。薬ヲ食ヒ、菓ノ子ヲ取テ、心ヲ閑カニシ道ヲ行フ。帝尺是ヲ見テ思ハク、「魚ノ子多カレド、魚ト成ルハ少シ。菴羅ノ花ハ滋ケレドモ、菓子ヲ結ブハ稀ナリ。人モ又如是シ。心ヲ発ス物ハ多カレド、仏ニ成ルハ稀ラナリ。惣テ諸ノ菩提心ハ浄土ニ経レド動ゴキ安ク、苦ルシビヲ恐テ励ミ難キ事、水ノ内ノ月キ波ニ随テ動キ安ク、鎧ヒヲ着タル軍サノ戦カフニ臨ミテ恐テ逃グルガ如シ。此ノ人ノ心ヲモ行キテ心ロ見テ知ル可シ」ト念フ。
 其ノ時ニ仏世ニ不伊坐ザリシカバ、雪山童子普ク大乗経ヲ求ムルニ不能ズ。
  諸行無常、是生滅法
ト云フ音(コ)ヱ風ノカニ聞コユ。驚キテ見レバ人モ無シ。羅刹近ク立テリ。其ノ形猛ケク恐ソロシクシテ、頭ノ髪ハ焰ホノ如ク、口歯ハ剣ノ如シ。目ヲ瞋カラカシテ普ク四方ヲ見廻ラス。此レヲ見レドモ不驚カズシテ、偏ヘニ聞キツル事ヲノミ悦ビ奇ブ事、喩ヘバ年シ経テ母ヲ別レタル小コ牛ノ、風ノカニ母ノ音ヲ聞ナラムガ如シ。
  此ノ事ハ誰レカ云ツルゾ。必ズ残ノ辞バ有ル可。
ト云テ、普ク尋ネ求ルニ人モ無ケレバ、「若シ此鬼ノ云ツルカ」ト疑ヘドモ、「マタ世ニ有ラジ」ト念フ。其ノ身ヲ見レバ罪ノ報ノ形ナリ。此ノ偈ヲ聞バ仏ノ説ヽヽヽバナリ。カカル鬼ニノ口ヨリカカル偈ヲ云ヒ不可出ト思ヘドモ、又異ト人ト無ケレバ、
  若此ノ事ハ汝ガ云ツルカ。
ト問バ、羅刹答フ、
  我ニ物ナ云ソ。物不食シテ多ノ日ヲ経ヌレバ、飢ヱ疲レテ物ノオモホエズ。既ニタハ事ニ云ヘルナラム。我ガ遷シ心ニ知レル事ニモ有ラジ。
ト答フ。
 人又云フ、
  我レ半偈ヲ聞キツルヨリ、半バナル月ヲ見ルガ如ク、半ナル玉ヲ得タルガ如シ。猶汝ガ云ツルナラム。願ハ残ノ辞ヲ説キ畢テヨ。
ト云ヘバ、鬼ノ云ク、
  汝ハ自来(モトヨ)リ悟リ有レバ、不聞トモ恨ミ不有ジ。吾レハ今飢ニ被迫レニタレバ、物可云キ力モ無シ。惣テ多シ。物ナ云ヒソ。
ト云フ。人猶問フ、
  物食ヒテバ説キテムカ。
ト問ヘバ、鬼、
  サラバ云ヒモシテムヲ。
ト答フ。悦テ、
  何ニ物ヲカ食フ。
ト問ヘバ、鬼答フ、
  汝更不可問ズ。聞カバ必ズ恐レヲ成シテム。聞クトモ又可求キ物ニモ不有ズ。
ト云フ。人迫テ問フ、
  猶其ノ物トダニ云ヘ。心見ニモ求見ム。
ト云ヘバ、鬼ノ云フ、
  吾レハ只人ノ温カナル肉ヲ啗ヒ、人ノ温カナル血ヲ呑ムト空ヲ飛テ普ク求メ、世ニ満テ人多カレド、各ノ守リ有レバ、心ニ任セテ難殺シ。
ト云フ。其ノ時ニ雪山童子ノ思ハク、「我レ今日フ身ヲ捨テ此ノ偈ヲ聞キ畢テム」ト思テ、
  汝ガ食ヒ物爰ニ有リ。外カニ不可求ズ。我ガ身未死ネバ、其ノ肉シ温ナラム。我身未寒ネバ、其ノ血温カナラム。早ク残ノ偈ヲ説ケ。即此ノ身ヲ与ヘム。
ト云フ。鬼ニ咲ヒテ云ク、
  誰カ汝ガ事ヲ実トヽハ可馮キ。聞テ逃テイナバ、誰レヲ證人トシテカ糾サムトスル。
ト云フ。雪山童子ノ云フ、
  此ノ身ハ後ニ遂ヒニ死ナムトス。一ツノ功徳ヲモ得マジ。今日フ法ノ為ニキタナク穢ガラハシキ身ヲ捨テ、後ニ仏ト成ムハ浄ク妙ナル身ヲ可得シ。土ノ器ヲ捨テヽ、宝ノ器ノニ替フルガ如クニセムトスル也。梵王、帝尺、四大天王、十方ノ諸仏菩薩ヲ皆證人ト為ム。我レ更ニ不偽ラジ。
ト云ヘバ、鬼、
  若シ云フガ如クニ実トナラバ説カム。
ト云フ。
 雪山童子大キニ悦ビテ、身ニ着タル鹿ノ皮ノ衣モヲ脱ギテ法ノ座ニ敷キテ、手ヲ叉ザヘ、地ニ跪マヅキテ、
  但シ願クハ我ガ為ニ残ノ偈ヲ説キ給ヘ。
ト云ツヽ、心ヲ致シテ深ク敬マフ。鬼ノ云フ、
  生滅々已、寂滅為楽トナム云フ。
ト。此ノ時ニ是ヲ聞悦ビ貴ブル事無限シ。後ノ世ニ不忘ジトテ、数タ度ビ云ヒ返シテ深ク其ノ心ニ染ム。「悦ブ所ハ、此ノ仏説キ給ヘルモ空シキ教ヲ悟リヌル事ヲ。歎ク所ハ、我レ一人ノミ聞キテ人ノ為ニ不伝成リヌル事ヲ」ト思ヒテ、石ノ上ヘ、壁ベノ上ヘ、道ノ辺ノ諸ノ木毎ニ此偈ヲ書キ付ク。
  願ハ後ニ来ラム人必ズ此ノ文ヲ見ヨ。
ト云ヒテ、即高キ木ニ上テ羅刹ノ前ニ落ツ。未ダ地ニ不至ヌ程ニ、羅刹俄カニ帝尺ノ形ニ成テ其身ヲ受ケ取リツ。平カナル所ニ居ヘテ、敬ヒ拝ガミテ云フ、
  我レ暫ク如来ノ偈ヲ借テ、心見ニ菩薩ノ心ヲ悩シツ。願ハ此ノ罪ヲ免シテ、後ニ必ズ渡シ済ヘ。
ト云フ。天人来テ、
  善哉々々、真ニ是菩薩。
ト唱フ。半偈ノ為ニ身ヲ投シニ、十二劫ノ生死ノ罪ヲ超ニキ。昔ノ雪山童子ハ今ノ尺迦如来也。涅槃経ニ見タリ。
        


  (注) 1.   上記の「雪山童子」(せっせんどうじ)の本文は、新日本古典文学大系31『三宝絵 注好選』(岩波書店、1997年9月22日第1刷発行)によりました。
 「雪山童子」は、「三宝絵 上」の第十条。             
   
    2.   新日本古典文学大系本の脚注(馬淵和夫・小泉弘 校注)に、「羅刹の唱える雪山偈の前半の二句を聞き、残りの半偈を聞こうとして、わが身を羅刹に与えようとした雪山童子の、施身聞偈の堅固な道心の話。法隆寺玉虫厨子台座の本生図の題材となっていることは著名。大般涅槃経・聖行品に依拠するが、経に見えない記事が多く、作者が利用したと推定される資料は未詳」とあります。            
    3.  新大系本には、漢字に振り仮名が多く振ってありますが、ここでは新大系本が拠った底本にある振り仮名のみを残して、他を省略しました。振り仮名は、丸括弧( )に入れて示しました。
 振り仮名がないと、かなり読みづらいので、読みの注を注7に記しておきます。
   
    4.  新大系本の拠った底本は、東京国立博物館蔵、東寺観智院旧蔵本(東寺観智院本)の由です。    
    5.  平仮名の「こ」を縦に押し潰した形の繰り返し符号は、普通の漢字に改めました。(「生滅滅已」「善哉善哉」)    
    6.   「雪山(せっせん)」とは、インド北部に聳えるヒマラヤ山脈のことだそうです。
 なお、新大系本には脚注が付いていますので、詳しくはそちらを参照してください。
   
    7.  新大系本の読み(ルビ)による注。
 
雪山童子(せっせんどうじ) 独ノ人(ひとりのひと) 菓ノ子(このみ) 魚ノ子(うおのこ) 菴羅(あむら) 菓子(このみ) 稀ナリ(まれらなり) 心ヲ発ス物(こころをおこすもの) 月キ波ニ随テ(つき、なみにしたがいて)  不伊坐ザリ(いまさざり) 大乗経(だいじょうぎょう) 風ノカニ(ほのかに) 頭ノ髪(かしらのかみ)   口歯(くちのは) 奇ブ(あやしぶ) 小コ牛(こうし)  母の音(ははのこえ) 辞バ(ことば)  説ヽヽヽバナリ(ときたま
えることばなり=東大寺切「仏のときたまへることばなり」による  異ト人ト(ことひと) 願ハ(ねがわくは)  説キ畢テヨ(ときはてよ)   被迫レ(せめられ)  人迫テ(ひとせめて) 肉ヲ啗ヒ(ししをくらい) 血ヲ呑ム(ちをのまむ) 未死ネバ(いまだしなねば) 
其ノ肉シ(そのしし) 未寒ネバ(いまだひえねば) 鬼ニ咲ヒテ(おに、わらいて) 実トヽハ可馮キ(まこととはたのむべき) 今日フ(けふ=きょう) 法(のり) 土ノ器(つちのうつわもの) 宝ノ器ノ(たからのうつわもの)  身ニ着タル鹿ノ皮ノ衣モ(みにつけたるししのかわのころも) 手ヲ叉ザヘ(てをあざえ) 地ニ跪マヅキテ
(つちにひざまずきて) 数タ度ビ(あまたたび) 心ニ染ム(こころにしむ) 石ノ上ヘ(いしのうえ) 文(ふみ) 不至ヌ(いたらぬ)  居へて(すえて) 渡シ済ヘ(わたしすくえ) 天人来テ(てんにんきたりて) 善哉々々(ぜんざい、ぜんざい) 生死ノ罪(しょうじのつみ) 見タリ(みえたり) 
   
    8.   三宝絵(さんぼうえ)には、(1)仏・法・僧の三宝に関する絵画。(2)仏教説話集の名。三宝絵詞ともいう。──の二つの意味があります。

 〇三宝絵(さんぼうえ)=仏教説話集。源為憲著。3巻。984年(永観2)撰し、冷泉天皇皇女尊子内親王に奉った。上巻は釈尊等の本生(ほんじょう)説話、中巻は日本の僧俗の事歴、下巻は月次法会の来歴。元来絵を伴っていたが、現在は絵は伝わらず詞(ことば)のみ。三宝絵詞。   (『広辞苑』第6版による。)     
 〇三宝絵詞(さんぼうえことば)=説話集。三巻。源為憲編。984年成立。冷泉天皇第二皇女尊子内親王のために撰進。説話を物語的に構成し、仏教を平易に解説する。絵は散逸。三宝絵。 (『大辞林』第2版による。)
   
    9.  新日本古典文学大系本の巻末の解説で、馬淵和夫氏は、「『三宝絵』は絵巻物の名称、『三宝絵詞』はその詞書だけを書き出して、読み物としたものの名称である。これを現代では「さんぼうえことば」と読んでいるが、平安時代には「さんぼうゑのことば」もしくは「さんぼうのゑのことば」と「の」を入れて読んだものかと思われる」と書いておられます。
 書名を「三宝絵」としたことについては、「本書の底本とした東京国立博物館本(いわゆる東寺観智院本)は、上・中・下各冊の表紙外題には「三宝絵詞」と書くが、内題・尾題はいずれも「三宝絵」とし(ただし、下巻の内題のみ「三宝絵詞」)、名古屋市博物館本(いわゆる関戸本)、前田尊経閣本もすべて「三宝絵」としているので」としておられます。
 また、「「三宝」は「さむぼう」か「さむぽう」かは決定しがたい」としておられます。(以上、詳しくは、同書「解説」を参照してください。)       
   
    10.  資料210「国民学校国語教科書『初等科国語 八』(本文)の中に、「修行者と羅刹」という題で、この雪山童子の話が出ています。これは、国民学校6年生後期用の教科書です。    
    11.  『msn エンカルタ百科事典ダイジェスト』に、曽我蕭白「雪山童子図」が出ていましたが、現在は見られないようです。(2010年2月15日)            
    12.  『三重県教育委員会』のホームページの文化財のページに、三重県指定有形文化財(絵画)の「紙本著色曽我蕭白筆「雪山童子の図」があり、〈しほんちゃくしょくそがしょうはくひつ「せつさんどうじのず」〉と読みが記してあります。
 この「せつさんどうじ」の読みについては、当時(記入者注:文化財指定当時)の聴き取りによるものであろうということでした。(2012年6月16日付記)
 
「雪山童子の図」の絵が「No Image」になっているのが残念です。
   
    13.  以前、『松阪市』のホームページの中の「文化財」のページに、曽我蕭白筆の「雪山童子図」が出ていて、ここでも「せつさんどうじのず」と読んでいました。その「せつさんどうじのず」の 読みは、県文化財の読みに拠ったもの、ということでしたが、今ホームページを見てみると、「せつせんどうじのず」となっていました。普通の読み方に変えたようです。(2023年8月11日)
 松阪市のホームページ
  →  紙本著色曽我蕭白筆 雪山童子の図(せつせんどうじのず) 
   
    14.  曽我蕭白筆「雪山童子図」を所蔵している継松寺に嘗て伺ったところでは、同寺では「雪山童子」を 「せつさんどうじ」と読み伝えていたそうです。ただし、現在の「岡寺山継松寺」のホームページには、「せっせんどうじ」となっています。この読みは、中村元著『仏教語大辞典』の読みに従ったものだそうです。(2012年6月16日付記)  
 「岡寺山継松寺」のホームページ
  → 文化財紹介(継松寺の宝物)
  
 「県指定文化財(非公開)」曽我蕭白筆 雪山童子図(せっせんどうじず)       
   
    15.  資料226に、雪山偈(『大般涅槃経巻第十三 聖行品之下』より)があります。    







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