資料224 寺田寅彦の随筆「案内者」(旧字・旧仮名)




 

        案 内 者               寺 田 寅 彦

  
何處かへ旅行がして見度くなる。併し別に何處と云ふきまつたあてがない。さういふ時に旅行案内記の類を開けて見ると、或は海濱、或は山間の湖水、或は温泉といつたやうに、行くべき處がさまざま有り過ぎる程ある。そこで先づ假りに温泉なら温泉ときめて、温泉の部を少し詳しく見て行くと、各温泉の水質や效能、周圍の形勝名所舊跡などの大體がざつと分る。しかしもう少し詳しく具體的の事が知りたくなつて、今度は温泉専門の案内書を搜し出して讀んで見る。さうすると先づぼんやりと大凡の見當がついて來るが、いくら詳細な案内記を丁寧に讀んで見た處で、結局本當の處は自分で行つて見なければ分る筈はない。もしも其れが分るやうならば、うちで書物だけ讀んで居ればわざわざ出掛ける必要はないと云つてもいゝ。次には念の爲に色々の人の話を聞いて見ても、人によつて可也云ふ事がちがつて居て、誰のオーソリティを信じていゝか分らなくなつてしまふ。それでさんざんに調べた最後には、つまり好い加減に、賽でも投げると同じやうな偶然な機縁によつて目的の地をどうにかきめる外はない。
 かういふやり方は云はゞアカデミックなオーソドックスなやり方であると云はれる。此れは多くの人々にとつて最も安全な方法であつて、かうすれば滅多に大きな失望やとんでもない違算を生ずる心配が少ない。さうして主要な名所舊跡をうつかり見落す氣遣もない。
 併し此れとちがつたやり方もないではない。例へば旅行がしたくなると同時に最初から賽をふつて行く處をきめてしまふ。或は偶然に讀んだ詩篇か小説かの中で或る感興に打たれたやうな場所に決めてしまふ。さうして案内記などにはてんで構はないで飛び出して行く。さうして自分の足と眼で自由に氣に向くまゝに歩き廻り見て廻る。此の方法は兎角色々な失策や困難を惹起し易い。又所謂名所舊跡などのすぐ前を通りながら知らずに見逃してしまつたりするのは有り勝な事である。此れは危險の多いヘテロドックスのやり方である。此れはうつかり一般の人にすゝめる事の出來かねるやり方である。
 併し前の安全な方法にも短所はある。讀んだ案内書や聞いた人の話が、何時迄も頭の中に巢をくつて居て、それが自分の眼を隱し耳を蔽ふ。それが爲に折角わざわざ出掛けて來た自分自身は云はゞ行李の中にでも押し籠められたやうな形になり、結局案内記や話した人が湯にはひつたり見物したり享樂したりすると同じやうな事になる、かういふ風になりたがる恐がある。勿論此れは案内書や敎へた人の罪ではない。
 併しそれでも結構であるといふ人が隨分ある。さういふ人は勿論それでよい。
 しかしそれでは、わざわざ出て來た甲斐がないと考へる人もある。曲りなりにでも自分の眼で見て自分の足で踏んで、其の見る景色、踏む大地と自分とが直接にぴつたり觸れ合ふ時にのみ感じ得られる鋭い感覺を味はなければ何にもならないといふ人がある。かういふ人は兎角に案内書や人の話を無視し、或はわざと避けたがる。便利と安全を買ふ爲に自分を賣る事を恐れるからである。かういふ變り者はどうかすると萬人の見るものを見落し勝である代りに、如何なる案内記にもかいてないいゝものを掘出す機會がある。
 私が昔二三人連れで英國の某離宮を見物に行つた時に、其の中の或る一人は、始終片手に開いたベデカを離さず、一室々々此れと引合せては詳細に見物して居た。其のベデカはちやんと一度下調べをして處々赤鉛筆で丁寧にアンダーラインがしてあつた。或る室へ來た時に其處の或る窓の前にみんなを呼び集め、ベデカの中の一行を指しながら、「此の窓から見ると景色がいゝと書いてある」と云つて聞かせた。一同はさうかと思つて、此の見逃がしてならない景色を充分に觀賞する事が出來た。
 私は此の人の學者らしい徹底したアカデミックな仕方に感心すると同時に、何だかそこに名狀の出來ない物足りなさ或は一種の果敢なさとでもいつたやうな心持がするのを禁ずる事が出來なかつた。なんだかこれでは自分がベデカの編者其自身になつて其の校正でもして居るやうな氣がし、そして其の窓が不思議なこだはりの網を私のあたまの上に投げかけるやうに思はれて來た。室に附隨した歴史や故實などはベデカによらなければ全く分らないが、窓の眺めのよしあし位は自分の眼で見付け出し選擇する自由を許して貰ひたいやうな氣もした。
 ベデカといふものがなかつた時の不自由は想像の外であらうが、しかし稀には最新刊のベデカに欺される事もまるでないではない。或る都の大學を尋ねて行つたら其處が何かの役所になつて居たり、名高い料理屋を搜しあてると貸家札が張つてあつたりした事もある。杜撰な案内記でゞもあればさういふ失敗は猶更の事である。しかし、かういふ意味で完全な案内記を求めるのは元來無理な事でなければならない。さういふものがあると思ふのが困難のもとであらう。
 それで結局案内記がなくても困るが、あつて困る場合もないとは限らない。

 中學時代に始めての京都見物に行つた事がある。黑谷とか金閣寺とかいふ處へ行くと、案内の小僧さんが建築の各部分や什物の品々の來歴などを一々説明してくれる。其の一種特別な節をつけた口調も田舎者の私には珍らしかつたが、それよりも、その説明が如何にも機械的で、云つて居る事柄に對する情緒の反應が全くなくて、説明者が單にきまつただけの聲を出す器械か何ぞのやうに思はれるのが餘程珍らしく不思議に感ぜられた。其時に見た寶物や襖の繪などはもう大概綺麗に忘れてしまつて居るが、其時の案内者の一種の口調と空虚な表情とだけは今でも頭の底にありありと殘つて居る。
 その時に一つ困つた事は、私が例へば或る器物か繪かに特別の興味を感じて、それをもう少し詳しくゆつくり見たいと思つても、案内者は凡ての品物に平等な時間を割當てゝ進行して行くのだから、うつかりして居ると其間にずんずんさきへ行つてしまつて、其間に私は澤山の見るべき物を見逃してしまはなければならない事になる。それは構はない積りで居ても其處を見て後に、同行者の間で丁度自分の見落したいゝものに就いての話題が持上つた時に、なんだか少し惜しい事をしたといふ氣の起るのは免れ難かつた。

 學校敎育や所謂參考書によつて授けられる知識は、色々の點で旅行案内記や、名所の案内者から得る知識に似た處がある。
 もし學校のやうな有難い施設がなくて、そして唯全くの獨學で現代文化の藏して居る廣大な知識の林に分け入り何物かを求めようとするのであつたら、其の困難はどんなものであらうか。始から終迄道に迷ひ通しに迷つて、無用な勞力を浪費するばかりで、結局目的地の見當もつかずに日が暮れてしまふのがおちであらうと思はれる。
 併し學校敎育の必要と云つたやうな事を今更新しく茲で考へ論じて見ようといふのではない。唯學校敎育を受けるといふ事が、丁度案内者に手を引かれて歩くとよく似て居るといふ事をもう少し立入つて考へて見度いだけである。
 案内記が詳密で正確であればある程、此れに對する信頼の念が厚ければ厚い程、吾々は安心して岐路に迷ふ事なしに最小限の時間と勞力を費して安全に目的地に到着することが出來る。これに増す有難い事はない。併しそれと同時についその案内記に誌してない横道に隱れた貴重なものを見逃してしまふ機會は甚だ多いに相違ない。さういふ損失をなるべく少くするには、矢張り色々の人の選んだ色々の案内記を弘く參照するといゝ。唯困るのは、既に在る案内記の内容を其儘にいゝ加減に繼ぎ合せてこしらへたやうな案内記の多い事である。此れに反して、寧ろ間違だらけの案内記でも、其れが多少でも著者の體驗を材料にしたものである場合には、存外何かの參考になる事が多い。
 併しいくら完全でも結局案内記である。いくら讀んでも暗誦しても、其れだけでは旅行した代りにはならない事は勿論である。
 案内記が系統的に完備して居るといふ事と、それが讀む人の感興をひくといふ事とは全然別な事で、寧ろ往々相容れないやうな傾向がある。所謂案内記の無味乾燥なのに反して優れた文學者の自由な紀行文や或は鋭い科學者の纏まらない觀察記は、それが如何に狹い範圍の題材に限られて居ても、其の中に躍動して居る活きた體驗から流露する或るものは、直接に讀者の胸に滲み込む、そして假令それが間違つて居る場合でさへも、書いた人の眞を求める魂だけは力強く讀者に訴へ、讀者自身の胸裡にある同じやうなものに火をつける。さうして誌された内容とは無關係に其處に取扱はれて居る土地其物に對する興味と愛着を呼び起す。
 專門の學術の參考書でもよく似た事がある。何か或る題目に關して廣く文獻を調べようといふ場合には色々なエンチクロペディやハンドブーフと云ふ種類のものはなくてならない重寶なものであるが、少し立入つて本當の事が知り度くなればもうそんなものは役に立たない。つまりは個々のオリヂナルの論文や著書を見なければならない。それで此のやうな參照用の大部なものを、骨折つて始めから終り迄漫然と讀み通し暗誦したところで、既に何等かの「題目」を持つて居ない學生に取つては極めて効果の薄い骨折損になり易いものである。又此んなものから題目を選み出すといふ事も、出來さうで出來ないものである。此れに反して個々の研究者の直接の體驗を記述した論文や著書には、假令其の題材が何であつても、其中に何かしら活きて動いて居るものがあつて、そこから受ける暗示は讀む人の自發的な活動を誘發する或る不思議な魔力をもつて居る。さうして讀者自身の研究心を強く喚び醒す。かういふ意味からでも、自分の專門以外の題目に關するいゝ論文などを讀むのは決して無益な事ではない。
 それで案内記ばかりに頼つて居ては何時迄も自分の眼はあかないが、さうかと云つてまるで案内記を無視して居ると、時々道に迷つたり、事によると瀧壺や火口に落ちる恐がある。此れは分り切つた事であるが。其れに拘らず敎科書とノートばかりを頼りにする學生が可也多數である一方には、又現代既成の科學を無視した爲に、折角いゝ考はもち乍ら結局失敗する發明家や發見者も時々出て來る。

 名所舊跡の案内者の一番困るのは何か少し餘計なものを見ようとすると No time, Sir! などと云つて引立てる事である。しかし此れも時間の制限があつて見れば無理もない事である。それで本當に自分で見物するには、もう一遍獨りで出直さなければならない事になる、唯其時に、例の案内者が「邪魔」をしてくれさへしなければいゝ。
 しかし案内者や先達の中には、自己のオーソリティに對する信念から割出された親切から個々の旅行者の自由な觀照を抑制する者もないとは云はれない。旅行者が特別な興味をもつ對象の前に暫く歩を止めようとするのを、そんなものはつまらないから見るのぢやないと世話をやく場合もある。つまるつまらないとが明に「相對的」のものである場合には此れは困る。案内者が善意であるだけに一層困る譯である。此種の案内者は其の專門の領域が狹ければ狹い程多いやうに見えるが、此れは無理もない事である。自分の「お山」以外のものは皆つまらなく見えるからである。
 一方で案内者の方から云ふと、其の率ゐて居る被案内者から餘りに信頼され過ぎて困る場合も隨分あり得る。何處迄も忠實に附從して來るはいゝとしても、眞逆に手洗所迄ものそのそついて來られては迷惑を感じるに相違ない。
 ニュートンの光學が波動説の普及を妨げたとか、ラプラスの權威が熱の機械論の發達に邪魔になつたとかといふ事はよく耳にする事である。或意味では確にさうかも知れない。しかし此の全責任を負はされては此等の大家達は恐らく泉下に瞑する事が出來まい。少くも責任の半分以上は彼等のオーソリティに盲從した後進の學徒に歸せなければなるまい。近頃相對原理の發見に際して又々ニュートンが引合に出され、彼の絶對論が屢々俎の上に載せられて居る。此れは當然の事としても、それが爲にニュートンを罪人呼はりするのは餘りに不公平である。罪人はもつともつと外に澤山ある。云はゞニュートンは眞理の殿堂の第一の扉を開いただけで逝いてしまつた。彼の被案内者は第一室の壯麗に醉はされて其の奥に第二室のある事を考へるものは稀であつた。つい近頃にアインシュタインが突然第二の扉を蹴開いて其處に玲瓏たる幾何學的宇宙の宮殿を發見した。しかし第一の扉を通過しないで第二の扉に達し得られたかどうかは疑問である。
 此の次の第三の扉は何處にあるだらう。此れは吾々には全然豫想もつかない。併し其の未知の扉にぶつかつて此れを開く人があるとすれば、その人は矢張り案内者などの厄介にならない風來の田舎者でなければならない。第三の扉の事は如何に權威ある案内記にも誌してないのである。

 想ふにうつかり案内者などになるのは考へものである。黑谷や金閣寺の案内の小僧でも、始めてあの建築や古器物に接した時には恐らく樣々な深い感興に動かされたに相違ない。それが毎日同じ事を繰返して居る間にあらゆる興味は蒸發してしまつて、すつかり口上を暗記する頃には、品物自身はもう頭の中から消えてなくなる。殘るものは唯「言葉」だけになる。眼は其の言葉に蔽はれて「物」を見なくなる。さうして丹波の山奥から出て來た觀察者の眼に映るやうな美しい影像はもう再び認める時はなくなつてしまふ。これは實に其人にとつては取返しのつかない損失でなければならない。
 此のやうな人は單に自分の擔任の建築や美術品のみならず、他の同種のものに對しても無感覺になる恐がある。例へば他所の寺で狩野永德の筆を見せられた時に「狩野永德の筆」といふ聲が直ちに此の人の眼を蔽ひ隱して、眼前の繪の代りに自分の頭の中に沈着して黴の生えた自分の寺の繪の像のみが照し出される。假令その頭の中の繪が如何に立派でも此れでは困る。手を觸れるものがみんな黄金になるのでは餓死する外はない。
 職業的案内者が此のやうな不幸な境界に陷らぬ爲には絶えざる努力が必要である。自分の日々説明して居る物を絶えず新しい眼で見直して二日に一度或は一月に一度でも何かしら今迄見出さなかつた新しいものを見出す事が必要である。其れには勿論異常な努力が必要であるが、さういふ努力は苦しい。それをしなくても今日には困らない。そこに案内者のはまり易い「洞窟」がある。
 ニュールンベルグの古城で、其處に蒐集された昔の物凄い刑具の類を見物した事がある。名高い「鐵の處女
(アイゼルネユングフラウ)」の前で説明をして居た案内者は未だうら若い女であつた。一體に病身らしくて顔色も惡く、何となく陰氣な容貌をして居た。見物人中の學生風の男が「失禮ですが、貴孃は毎日何遍となく、そんな恐ろしい事柄を口にして居る、それで神經をいためるやうな事はありませんか」と聞くと、何とも返事しないで唯音を立てゝ息を吸ひ込んで、暗い顔をして眼を伏せた。私は隨分殘酷な質問をするものだと思つて餘りいゝ氣持はしなかつた。恐らく此の女も毎日自分の繰返して居る言葉の内容には疾に無感覺になつて居たのだらう。それが此の無遠慮な男の質問で始めて忘れて居た内容の恐ろしさと、それを繰返す自分の職業の不快さを思ひ出させられたのではあるまいか。
 此れと場合はちがふが、吾々は子供などに科學上の知識を敎へて居る時に屢々自分が何の氣も付かずに云つて居る常套の事柄の奥の深みに隱れた或るものを指摘されて、職業科學者の弱點を際どく射通され思ひがする事はないでもない。
 案内者になる人は餘程氣を付けねばならないと思ふ。

 ナポリを見物に行つた序に、程遠からぬポツオリの舊火口と其の中にある噴氣口を見に行つた。電車を下りてベデカを頼りに尋ねて行かうとすると、すぐに一人の案内者が追ひすがつて來て頻りにすゝめる。まだ三十にならないかと思はれる餘り人相のよくない男である。てんで相手にしない積りで居たが何處迄も根氣よくついて來て、そして息を切らせながらしつこく同じ事を繰返して居る。其れを叱りつけるだけの勇氣のない私は、結局其の五月蠅さを免れる唯一の方法として彼の意に從ふ外はなかつた。其の結果は豫想の通り甚だ惡るかつた。始め定めた案内料の外に、色々の口實で少しづゝ金を取り上げられて、そして案内者を雇つただけの效能は殆んどなかつた。唯一つの面白かつたのは、麻絲か何かの束を黄蠟で固めた松明を買はされて持つて行つたが、噴氣口の傍へ來ると、案内者は其れに點火して穴の上で振り廻した。そして「蒸氣の噴出が増したから見ろ」と云ふのだが、私には一向何の變りもないやうに思はれた。すると彼は其處とは大分離れた後方の火口壁の處々に立上る蒸氣を指して「あの通りだ」といふ。しかし松明を振る前にはそれが出て居なかつたのか、又どれ位出て居たのか、丸で私は知らなかつたのだから、結局此の松明の實驗
(エキスぺリメント)は全然無意味なものに終つてしまつた。しかしさういふ飛びはなれた非科學的の「實驗」が恐らく毎日此處で行はれてそして見物人の幾割かはそれで納得するものだとすると、さういふ事自身が可也興味のある事だと思はれた。
 知識の案内者と呼ばれ、權威
(オーソリティ)と呼ばれる人には流石にこんな人は無い筈である。其れでは被案内者が承知しない。併し名を科學に借りて專門知識のない一般公衆の眼を眩ますやうな非科學的實驗を行つた者が西洋には昔から隨分あつた。そのやうな場合には、殆んどきまつて、平生科學に對して反感のやうなものをもつて居る一群の公衆、殊に新聞などによつて既成科學の權威が疑はれ、そのやうな「發見」に冷淡な學者が攻撃される。併し科學者としては事柄の可能不可能や蓋然性の多少を既成科學の系統に照して妥當に判斷を下す外はないので、もし萬に一つ其の判斷が外れゝば、それは眞に新しい發見であつて科學は其爲に著しい進歩をする。しかし其のやうな場合があつても、判斷が外れた事は必しも其の科學者の科學者としての恥辱にはならない。其場合には要するに科學が一歩を進めたといふ事になる。さういふ風にして進歩するのが科學ではあるまいか。寧ろ見當の外れる方が科學者として妥當である場合がないでもない。
 此のやうな場合は別として、純粹な眞面目な科學者でも、やはり人間である限り千慮の一失がないとは限らない。そして不知不識にポツオリの松明に類した實驗や理論を人に示さないとは限らない。
 グラハムが發電機を作つた時に當時の大家某は一論文を書いて、そのやうな事が不可能だといふ「證明」をした。其れに拘らずグラハムの器械からは電流が遠慮なく流出した。其後に此の器械から電流の生ずるといふ方の證明が段々現はれて來たといふ話を何かで讀んだ事がある。しかし其の大家の論文をよく讀んで見なければうつかり其の人の非難は出來ない。
 ヘルムホルツが「人間が鳥と同じやうにして空を翔ける事は出來ない」と云つたのに、現に飛行機が出來たではないかといふ人があらばそれは見當ちがひの辯難である。現在でも將來でも鳥のやうに翼を自分の力で動かして、唯それだけで鳥のやうに翔ける事は出來はしない。
 凡ての案内者も時々此れに類した誤解から起る非難を受ける恐のある事を覺悟しなければならない。例へば、案内者が「此の河を渡る橋がない」と云ふ意味で、渡れないと云つたのを船で渡つておいて「此通り渡れるではないか」と云はれるのはどうも仕方がない。此等は恐らくどちらも惡いかどちらも惡くないかである。意志が疏通しないから起る誤解である。
 併しあらゆる誤解を豫想して此れに備へる事は神樣でなければ六ヶしい。此處にも案内者と被案内者の困難がある。

 私の厄介になつたポツオリの案内者は別れ際に更に餘分の酒代をねだつて氣永く附き纏つて來た。それを我慢して相手にしないで居たら、最後の捨言葉に「日本人はもつとゼントルマンかと思つた」と云ふから、私も「伊太利人はもつとゼントルマンかと思つた」と答へて、それ切り永久に別れてしまつた。私も少し惡るかつたやうである。併しこんなのは流石に知識の案内者にはない。

 考へて見ると案内者になるのも被案内者になるのも中々容易ではない。凡ての困難は「案内者は結局案内者である」といふ自明的な道理を忘れ易いから起るのではあるまいか。
 景色や科學的知識の案内では此樣な困難がある。もつとちがつた色々の精神的方面ではどんなものであらうか。此方には更に甚しい困難があるかも知れないが、或は事によると却つて事柄が簡單になるかも知れない。其處には「信仰」や「愛情」のやうなものが入り込んで來るからである。併しさうなるともう私が茲に云つて居る唯の「案内者」ではなくなつてそれは「師」となり「友」となる。師や友に導かれて誤つて曠野の道に迷つても怨はない筈ではあるまいか。
                     
(大正十一年一月、改造)
 

  
        

 

  (注) 1.  上記の寺田寅彦の随筆「案内者」(旧字・旧仮名)の本文は、岩波文庫『寺田寅彦随筆集 第一巻』(昭和22年2月5日第1刷発行、昭和33年9月10日第23刷発行)によりました。
 
旧字といっても、一部の漢字は新字体になっていることをお断りしておきます(海・温・情・難・歴・尋・……など)。               
   
    2.  平仮名の「く」を縦に伸ばした形の繰り返し符号は、それぞれ普通の仮名に直してあります(「さまざま」「わざわざ」「さんざん」など)。また、平仮名の「こ」を押し潰したような形の繰り返し符号は、「々」で置き換えてあります(屢々)。    
    3.  初めのほうにある下線を施した部分、「書いてある(此の窓から見ると景色がいゝと書いてあると、後のほうに出て来る「つまらない」「つまるつまらないから見るのぢやない; つまるつまらないとが明に「相對的」のものである場合)、「しつこく(息を切らせながらしつこく同じ事を繰返して居る)、「生ずる」(此の器械から電流の生ずるといふ)は、文庫本文では傍点(、)が打ってある部分です。                   
    4.  文部省の新制高校用教科書『高等国語一下』(昭和22年10月25日翻刻発行)にこの「案内者」の一部が載っていますので、授業でこの随筆を読んだ人も多いことでしょう。    
    5.  寺田寅彦(てらだ・とらひこ)=物理学者・随筆家。東京生れ。高知県人。東大教授。地球物理学を専攻。夏目漱石の門下。筆名は吉村冬彦。随筆・俳句に巧みで、藪柑子と号した。著「冬彦集」「藪柑子集」など。(1878-1935)(『広辞苑』第6版による。)    
    6.  フリー百科事典『ウィキペディア』に「寺田寅彦」の項があります。                  
    7.  電子図書館「青空文庫」で、新字・新仮名による「案内者」を読むことができます。    
           
           
           

            
 
              

        
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