資料206 鳴かぬなら……(「ほととぎす」の句)

 
 

 

1.連歌その心自然に顯はるゝ事   『耳袋』巻の八より

 
古物語にあるや、また人の作り事や、それは知らざれど、信長、秀吉、恐れながら神君御參會の時、卯月のころ、いまだ郭公を聞かずとの物語いでけるに、信長、
   鳴かずんば殺してしまへ時鳥
 とありしに、秀吉、
   なかずともなかせて聞かう時鳥
 とありしに、
   なかぬならなく時聞かう時鳥
 とあそばされしは神君の由。自然とその御德化の温順なる、又殘忍、廣量なる所、その自然をあらはしたるが、紹巴もその席にありて、
   なかぬなら鳴かぬのもよし郭公
 と吟じけるとや。


2.鳴かぬなら……      『甲子夜話』五十三より

  
夜話のとき或人の云けるは、人の仮托に出る者ならんが、其人の情実に能く恊へりとなん。
  郭公を贈り参せし人あり。されども鳴かざりければ、
 なかぬなら殺してしまへ時鳥   織田右府
 鳴かずともなかして見せふ杜鵑  豊 太 閤
 なかぬなら鳴まで待よ郭公    大権現様
このあとに二首を添ふ。これ憚る所あるが上へ、固より仮托のことなれば、作家を記せず。
 なかぬなら鳥屋へやれよほとゝぎす
 なかぬなら貰て置けよほとゝぎす

 

 


 
 

 

 
  (注) 1.  「連歌その心自然に顯はるゝ事」(『耳袋』巻の八より)の本文について
 (1) 『耳袋』の「連歌その心自然に顯はるゝ事」の本文は、東洋文庫208『耳袋 2』(根岸鎮衛著、鈴木棠三編注。平凡社1972年4月28日初版第1刷発行)によりました(同書、198~199頁)。 ただし、漢字を旧字体に、仮名遣いを歴史的仮名遣い に改めてあります。
 『耳袋』は、正式には『耳囊』と表記すべきもののようですが、一般には『耳袋』と表記されているようです。
 (2) 東洋文庫208『耳袋 2』の凡例に、「本書は、三一書房刊『日本庶民生活資料集成巻16』所収の10巻本を基にして、本文を作製したものである」とあります。         
 (3) 本文中の「紹巴(じょうは)」について、「連歌師。秀吉から百石を与えられ、秀次の連歌の師。秀次事件で秀吉の怒りをかったが、徳川氏に仕え、里村北家の祖となる」と編注者の注があります。(次の注(4)をご覧下さい。)      

 (4) 〇耳袋・耳囊(みみぶくろ)=随筆。根岸鎮衛
やすもり著。10巻。1814年(文化11)成る。立身して勘定奉行・江戸町奉行などを勤めた著者が、巷説・奇談・教訓話などを書き留めたもの。
 〇根岸鎮衛(ねぎし・やすもり)=江戸後期の江戸町奉行。一名、守信。随筆「耳囊
みみぶくろ」の著者。(1737~1815) 
 〇里村紹巴(さとむら・じょうは)=室町末期の連歌師。奈良の人。臨江斎と号す。周桂に従い、その没後、里村昌休に学ぶ。連歌界の第一人者とされ、法橋
(ほっきょう)に叙せられる。その作になる百韻千句「称名院追善千句」「明智光秀張行百韻」は有名。学書に「連歌新式註」「連歌至宝抄」など。子孫は江戸幕府に仕えて世々御連歌師となった。(1525頃~1602)  (以上、『広辞苑』第6版による) 
 
    2.  「鳴かぬなら……(『甲子夜話』五十三より)」について 
 (1) この『甲子夜話』の本文は、東洋文庫333『甲子夜話 4 』(松浦静山著、中村幸彦・中野三敏校訂。平凡社、1978年7月20日初版第1刷発行、1989年3月20日初版第5刷発行)によりました。「甲子夜話五十三 [八]」に出ています。(同書、57~58頁)
 (2) 凡例によれば、同書の底本には、松浦素氏蔵「平戸藩 楽歳堂蔵書」本を用いた、とあります。(「底本の仮名は引用のばあいなどを除いてほとんど片仮名書きであるが、これをすべて平仮名書きに改めた」とあります。)
 (3) 文中の「織田右府」(「右府」は「うふ」、右大臣)は、織田信長のこと。「豊太閤」(ほうたいこう)は、豊臣秀吉のこと。「大権現様」は、徳川家康のことです。
 (4) 秀吉の「見せふ」は、「みしょう」と読むのでしょう。(「見せふ」は、歴史的仮名遣いでは「見せう」となるところです。)家康の「待よ」は、「まつよ」と読むのでしょうか。
 「時鳥」「杜鵑」「郭公」は、いずれも「ほととぎす」と読みます。ついでに読みを少し補っておきます。
(「待よ」の読みについて、記述を修正しました。2008年9月10日)
 「出る」……いづる   「恊へり」……かなへり(かなえり)   「参せし」……まゐらせし   「固より」……もとより   「記せず」……きせず             
 (5) 〇松浦静山(まつら・せいざん)=江戸後期の平戸第九代藩主。随筆家。名は清。財政改革・藩校維新館設置など治績を挙げる。1806年(文化3)致仕後、活字を作り印刷を試み、諸芸をたしなむ。随筆「甲子夜話
(かっしやわ)」のほか編書著が多い。(1760~1841)
 〇甲子夜話(かっし・やわ)=随筆。肥前平戸藩主、松浦
(まつら)静山著。文政4年(1821)11月17日甲子の夜より起稿。正続各100巻、後編78巻。大名・旗本の逸話、市井の風俗などの見聞を筆録。(以上、『広辞苑』第6版による。)
 (6) 上の本文を読みやすい一般的な表記にしてみます。

 夜話のとき或る人の言ひけるは、人の仮託に出づるものならんが、その人の情実によく適へりとなん。
   郭公を贈り参らせし人あり。されども鳴かざりければ、
  鳴かぬなら殺してしまへ時鳥   織田右府
  鳴かずとも鳴かして見せう杜鵑  豊 太 閤
  鳴かぬなら鳴くまで待つよ郭公  大権現様
 このあとに二首を添ふ。これ憚るところあるが上、もとより仮託のことなれば、作家を記せず。
  鳴かぬなら鳥屋へやれよほとゝぎす
  鳴かぬなら貰つて置けよほとゝぎす

 (「待よ」は、「待つよ」と読んでおきました。)
 
    3.  このホトトギスの句は、いかにも3人の武将の性格を的確に言い表したものとして、よく知られていますが、もちろん鎮衛(やすもり)が「人の作り事や」といい、静山が、「或る人」が「人の仮託に出づるものならんが」と言っているが、と紹介しているように、3人に仮託して作られたものでしょう。
 句の形は、分かりやすい形に変えて(たとえば、「鳴かぬなら鳴くまで待とうほととぎす」など)、いろいろに言われているようです。
 

   
             
                                                             
       


     
 
       
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