(注) | 1. | この菅原道真「請令諸公卿議定遣唐使進止状」は、『日本古典文学大系72 菅家文草 菅家後集』(川口久雄校注、岩波書店、昭和41年10月5日第1刷発行)によりました。 | |||
2. | この奏状は、『菅家文草』の巻第九に収録されています(大系の一連番号601)。 200数十年間続いた遣唐使の派遣は、宇多天皇の時、この菅原道真の建議によって廃止されました。(遣唐使の廃止、寛平6年(894)) |
||||
3. | 大系本文についている返り点・一部の送り仮名は、省略しました。 | ||||
4. | (1)
「更告不朝之問、終停入唐之人」について、大系本文には、「(二句、意未詳)」と注がついています。 (2) 「區々之旅僧」の「旅」について、大系本文には、「(旅字、底本・板本並作レ旋、今據2本朝文集1)」とあります。底本は、凡例に『明暦2年藤井懶斎奥書3冊青表紙本』(校注者架蔵)とあります。 |
||||
5. | 語注: 〇「代馬越鳥」……代(中国の北方地方)に産する馬と越(中国の南方の国)の鳥のことで「代馬依北風」「越鳥巣南枝」といい、馬や鳥でも故郷の忘れがたいことをいう。「代馬依北風」は、「胡馬依北風」がよく知られている。「胡馬依北風、越鳥巣南枝」(『文選』「古詩十九首」)。 〇「胡馬依北風」(こば、ほくふうによる)……北方の胡に生まれて今ほかの地方にいる馬は、北方から吹いてくる風に身を寄せて故郷を慕っていななく。故郷の忘れがたいことのたとえ。 〇「越鳥巣南枝」(えつちょう、なんしにすくう)……南方の越の国から来た鳥は、故郷を恋しがり、木に巣をつくるときも南のほうの枝を選ぶ。故郷の忘れがたいことのたとえ。 〇「欵誠」(かんせい)=「欵」は「款」の異体字。まこと。「欵誠」で、まごころ、の意。 |
||||
6. | 次に、本文の書き下し文を記しておきます。(読み仮名は、現代かなづかい) 諸公卿をして遣唐使の進止を議定せしめんことを請ふの状 菅原道真 右、臣某、謹んで在唐の僧中瓘、去年三月商客王訥(おうとつ)等に附して到す所の録記を案ずるに、大唐の凋弊、之を載すること具(つぶさ)なり。更に不朝の問を告げ、終に入唐の人を停む。中瓘、区々の旅僧と雖も、聖朝の為に其の誠を尽くす。代馬・越鳥、豈に習性に非ざらんや。臣等伏して旧記を検するに、度々の使等、或いは海を渡りて命に堪へざる者有り。或いは賊に遭ひて遂に身を亡ぼす者有り。唯、未だ唐に至りては、難阻飢寒の悲しみ有りしことを見ず。中瓘申し報ずる所の如くんば、未然の事、推して知るべし。臣等伏して願はくは、中瓘の録記の状を以て、遍(あまね)く公卿・博士に下し、詳(つまびらか)に其の可否を定められんことを。国の大事にして独り身の為のみにあらず。且つは欵誠(かんせい)を陳べて、伏して処分を請ふ。謹んで言(もう)す。 寛平六年九月十四日 大使參議勘解由次官從四位下兼守左大辨行式部權大輔春宮亮菅原朝臣某 |
||||
7. | 〇遣唐使(けんとうし)=国際情勢や大陸文化を学ぶために十数回にわたって日本から唐へ派遣された公式使節。大使・副使らふつう5、6百人が数隻の船に分乗して、2、3年がかりで往復した。630年犬上御田鍬(いぬかみのみたすき)が派遣されたのが最初。唐末の戦乱のため、894年(寛平6)菅原道真の建議により廃止。入唐(にっとう)使。 〇遣唐使船(けんとうしせん)=遣唐使の乗る船。7世紀には2,3隻、8~9世紀には4隻で船団を編成。遣唐船。 〇菅原道真(すがわら・の・みちざね)=平安前期の貴族・学者。是善の子。宇多天皇に仕えて信任を受け、文章博士・蔵人頭・参議などを歴任、894年(寛平6)遣唐使に任ぜられたが、その廃止を建議。醍醐天皇の時、右大臣となったが、901年(延喜一)藤原時平の讒言により大宰権帥(だざいのごんのそち)に左遷され、同地で没。書をよくし、三聖の一人。「類聚国史」を編し、「三代実録」の撰に参与。詩文は「菅家文草」「菅家後集」に所収。死後、種々の怪異が現れたため御霊(ごりょう)として北野天満宮に祭られ、のち学問の神として尊崇される。菅公(かんこう)。菅丞相(かんしょうじょう)。菅家(かんけ)。(845-903) (引用者注:丞相は「じょうしょう」とも読む。) (以上、この項は、いずれも『広辞苑』第6版によりました。) |
||||
8. | 大阪大学学術情報庫に、『菅原道真と遣唐使(一):「請令諸公卿議定遣唐使進止状」「奉勅為太政官報在唐僧中瓘牒」の再検討』という滝川幸司氏による論文があり、そこで「請令諸公卿議定遣唐使進止状」の原文・訓読・通釈が見られます。 |