資料201 武石浩玻の銅像の碑文と写真
                  


   
     武石浩玻の銅像の碑文

此 爲 武 石 君 浩 玻
像 君 那 珂 郡 勝 田
産 初 入 水 戸 中 學
畢 業 遊 米 國 學 飛
行 術 大 正 二 年 五
月 演 技 京 阪 之 閒
飛 翔 極 妙 邦 彦 王
嗟 賞 此 諸 白 鳩 遂
以 名 其 機 會 機 毀
墜 死 擧 世 悼 惜 郷
人 建 之 永 記 念 云
              
   武石浩玻の銅像 武石浩玻の銅像銘板             
  武石浩玻の銅像の写真1(→拡大)    武石浩玻の銅像の銘板 (→拡大
       
        最下段に、武石浩玻の銅像の写真を追加してあります。


  (注) 1.  上記の「武石浩玻の銅像の碑文」は、茨城県立水戸第一高等学校の西端、旧水戸城址の土塁の上に建っている武石浩玻の銅像の下部に嵌め込まれている碑面によりました。    
    2.  碑文は、1行7字、全11行、合計77字で書かれています。    
    3.  武石浩玻の銅像は、浩玻墜死の大正2年の年末(12月21日)に建てられました。(東京朝日新聞、大正2年12月22日の記事に、「水戸城頭に建設せられたる飛行家武石浩玻氏の銅像は予定の通り二十一日午前十時半除幕式を挙行せり」とあります。──注12に記事の写しがあります。)
 『水戸一高百年史』(昭和53年11月11日発行)に、「地元水戸では記念碑建設の話がまとまった。発起人に岡田知事、竹下旅団長、原市長、菊池校長、富岡陸軍中将などが名を連ね、一人二十銭以上、七月末日締切りで、建碑費二千円の募金を行なった。募金は順調に達成され、年末には本校の西端に飛行服姿の浩玻銅像が建てられた。」 (同書218~219頁)とあります。同書巻末の年表には、「大正2年(1913) 12・- 武石浩玻銅像竣工」となっています。 
 浩玻の像は水戸市街を西に見晴るかして立っていますが、悪童連が像の向きを、すぐ近くの女子校である水戸三高の方角(西北)に向けてしまうということがよくあったようです。
 網代茂氏の『水府巷談』(新いばらきタイムス社、1986年4月6日発行)には、「浩玻銅像は京都の方角の空に向かって立っている」とあります。(同書、304頁)
   
    4.  上掲の武石浩玻の銅像の写真は、昭和44年(1969)11月2日に撮影したものです。    
    5.   銅像の大きさは、網代茂氏の前掲書に、「銅像そのものの高さは1.65㍍で等身大ともおもわれる。御影石の台座は2.25㍍、下段の奥行は1.70㍍。」とあります。また同書に、像の製作者について、「像の製作者は銅像台の右側に「久野謹作」とある。久野はその名を惣十 郎、上水戸三の一・光台寺門前の人。旧家の久野家は維新前から鍋などを製作、販売。鋳造のほか彫刻も巧みで大手橋土塁前にあった明治天皇行在記念塔も彼の作」とあります。(同書、304頁)    
    6.  碑文中にある「邦彦王(くによしおう)」とは、久邇宮(くにのみや)邦彦王(1873~1929)のこと。皇族で陸軍軍人(陸軍大将、歿後元帥)。 久邇宮朝彦親王の第3王子。邦彦王の第1王女良子(ながこ)女王は、昭和天皇の皇后。大正2年5月当時は、陸軍歩兵大佐・歩兵第38連隊長でした。    
    7.  武石浩玻(明治17年(1884)~大正2年(1913))=日本航空界最初期の民間航空家。茨城県那珂郡勝倉村(のち、勝田村勝倉、勝田市勝倉。現在は、ひたちなか市勝倉)に生まれた。初め道之助、のち浩玻。武石家は、もと武田氏の家臣、その後佐竹氏に仕えたが、佐竹が秋田へ移封後は土着して帰農したという。祖父・理左衛門の分家にあたる人に、探検家・木村謙次と同行して、千島列島のエトロフ島に「天長地久大日本国」の標柱を建てた武石民蔵がいる。
 明治35年(1902)、茨城県水戸中学校(入学時の校名は、茨城県尋常中学校)を卒業し、船乗りになろうとして横浜に出て郵船外国航路のボーイとなる。明治36年(1903)、アメリカに渡り、グラマースクールを卒業し、ハイスクールに進んだ。しかし2年間で中退、英文学研究のため大学に進もうとしたが、学資が続かず、さまざまな職業に就きながら大学予備校に通ったりした。明治41年(1908)、ロサンゼルス郊外でフランス人飛行家の飛行大会を見て感激、急速に飛行機に熱中していったという。飛行機に関する本を買い求め、片端から読んでいった。2年後には、『飛行機全書』を著した。カーチス飛行学校で操縦技術を学び、わずか3か月で卒業。在留邦人の援助で新しい飛行機(カーチス型ホールスコットA2式85号60馬力、80気筒の複葉機)を購入して、大正2年(1913)4月、帰国。同年5月、大阪朝日新聞社主催の、浩玻による都市連絡飛行が企画された。
 計画では、第1日(5月1日)は、兵庫県鳴尾競馬場で旋回飛行。第2日(5月2日)も、鳴尾で数回飛行。第3日(5月3日)は、都市連絡飛行として、鳴尾競馬場~大阪城東練兵場~京都深草練兵場を往復。第4日(5月4日)は、高飛行として、午前に神戸上空を旋回飛行、午後は六甲山上を飛行して鳴尾競馬場に帰着する、という予定であった。  
 しかし、1日が雨天であったため、この日の飛行は中止。午後は暴風雨となり、飛行機を格納してあった天幕が倒れ、翼の一部と昇降舵が破損。この修理のため日程は2日順延され、計画も5月3日から3日間に縮小された。
 5月3日、兵庫県鳴尾競馬場で旋回飛行が行われた。5月4日、都市連絡飛行が行われた。鳴尾競馬場を飛び立った飛行機は、大阪城東練兵場に無事着陸。各種のセレモニーが行われた。午後、京都に向かった飛行機は、やがて京都深草練兵場の上空に姿を現した。
 しかし、着陸する寸前、墜落して機体は大破、投げ出された浩玻はすぐに深草衛戍病院に運ばれたが、まもなく絶命した。後部が重い機体のバランスをとるために前部にくくりつけておいた鉄片が離脱落下し、操縦不能に陥ったための事故といわれる。
 1903年にライト兄弟が飛行機を発明してから10年、帰国後わずか1か月の出来事であった。享年28(数えで30)。法名は、白鳩院逮得天郊居士(はくきゅういんたいとくてんこうこじ)。民間飛行家として最初に日本の空を飛んだ人物であり、民間飛行家の最初の犠牲者でもある。
 ※ お断り: 上記の文中に、「初め道之介、のち浩玻」とあったのを、水戸市立博物館発行の図録「特別展 『あこがれの空へ 民間パイロットの先駆け 武石浩玻』」(2015年)によって、「初め道之助、のち浩玻」と書き改めました。戸籍には「道之助」となっている由です。
 なお、現在の水戸第一高等学校の同窓会名簿『知道会会員名簿』(平成19年版)には、「武石浩玻(道之介)」となっています。(2015年4月22日付記)
          
   
    8. 参考書
 〇『武石浩玻遺稿 飛行機全書 附録 京阪都市聯絡飛行記事』(政教社、大正2年6月23日発行)
 「飛行機全書」は240頁、そのあとに「飛行機全書附録」として「京阪都市聯絡飛行記事」が187頁掲載してあります。
 〇金井重雄著『飛行家武石浩玻三十年の命』(金井重雄、1913年刊)
 〇『常陽藝文』 №112(1992年9月号、常陽藝文センター、平成4年9月1日発行)の藝文風土記「大空に散った若き先駆者勝田市出身の飛行家・武石浩玻」
 〇平木國夫著『イカロスたちの夜明け』(グリーンアロー出版社、1996年刊)(『鳥人たちの夜明け』(朝日新聞社、1978年刊)の増補改訂版)
 〇平木國夫著『すばらしき飛行機時代─20世紀ヒコ-キ・グラフィティー』(アトラス出版、2000年9月刊、アトラスムック№3)
 〇稲垣足穂著『ライト兄弟に始まる』(徳間書店、1970年刊)
 〇『稲垣足穂全集6』(ライト兄弟に始まる)(筑摩書房、2001年3月
 〇網代茂著『水府巷談』(新いばらきタイムス社、1986年4月6日発行)
 水戸地方の銅像(2) アメリカで修業、千島探検家の血をひくライト兄弟から10年後に飛ぶ民間航空界の先覚 武石浩玻(同書、302~305頁)
   
    9.  『イナガキ・タルホ・フラグメント』というについてのサイト(製作・管理人、大崎啓造氏)があって、そこに、「TAKEISHI KOHAを知っていますか?」というページがあります。武石浩玻についての詳しい記述や多くの写真が見られますので、ぜひご覧下さい。
 『稲垣足穂 イナガキ・タルホ・フラグメント』
  →「TAKEISHI KOHAを知っていますか?」
   
    10.  日本航空協会によるWEB版『航空と文化』というサイトに、「航空黎明期を駆け抜けた民間飛行家、武石浩玻」というページがあり、たいへん参考になります。    
 一般財団法人日本航空協会
  → WEB版『航空と文化』
  → 航空黎明期を駆け抜けた民間飛行家、武石浩玻」     
           (2016年8月17日記)
   
11.  フリー百科事典『ウィキペディア』の中に「武石浩玻」の項があって参考になります。
12.  国立国会図書館の『近代日本人の肖像』の中に武石浩玻の写真が出ています。
    13.  試みに、碑文を訓読してみます。(読み方についてご教示いただければ幸いです。)

 此れは武石君浩玻の像たり。君は那珂郡勝田の産(うまれ)なり。初め水戸中学に入(い)り、業を畢(を)へて米国に遊び、飛行術を学ぶ。大正二年五月、京阪の間に演技し、飛翔極めて妙(たへ)なり。邦彦王、此れは諸(これ)白鳩なりと嗟賞す。遂に以て其の機に名づく。 会(たまたま)機毀(こぼ)たれ、墜死す。世を挙げて悼惜す。郷人之(これ)を建て永く記念す、と云ふ。
   
    14.  銅像の除幕式を伝える東京朝日新聞の記事(大正2年12月22日)。
 記事は漢数字等を除いて総ルビになっていますが、ここでは一部を除いてルビを省略しました。
 ●武石浩玻氏銅像除幕 ▽水戸城頭にて擧行
水戸城頭に建設せられたる飛行家武石浩玻氏の銅像は豫定の通り二十一日午前十時半除幕式を擧行せり參列せる來賓は岡田知事、竹下旅團長、富岡少將、千谷裁判所長、吉松檢事正、東園内務部長、吉見輝氏等重なる官民數百人にして武石家よりは浩玻氏の令兄仙之助、同如洋、令妹ふさの諸氏出席せり仙波の湖面盈々たる水を湛へて脚下に迫り一眸際崖なき處銅像前の式塲に於て先づ建設總務菊池謙次(ママ)郎氏浩玻氏の遺德を賞揚し沈痛なる式辭を述べ終るや數發の煙花(はなび)を合圖に紺絣の羽織に小倉の袴を穿きたる如洋氏長男信行氏(九才)はツト進みて綱を引けば堂々たる
▲浩玻氏の雄姿は  微笑を浮べながらに現はれたり建設總務塙七平氏事業報告後フロツクコートを着たる武石家の代表者如洋氏は鞠躬如として壇に進み一塲の挨拶を試み終つて岡田知事竹下旅團長、鈴木商業會議所會頭、珂北會長、根本良顯氏の祝辭朗讀あり十一時式を閉ぢ直(たゞち)に中學校庭の園遊會に移りたり米國加州飛行協會員たる野島銀藏氏又來會して如洋氏と刺を通じ互に茶碗酒を汲み交はし居たるは好個の對照なり斯くて午後一時近く散會せり(水戸電話)
 ※ 記事中の「菊池謙次(ママ)郎氏」の(ママ)は、引用者が付けたものです。正しくは「菊池謙二郎氏」です。
 なお、大正2年12月12日の同紙紙面に、「飛行家武石浩玻氏の銅像」として銅像の写真が掲載され、「水戸中學校内に建設、來る廿一日除幕式擧行」とあります。
   
    15.  平成23年(2011年)3月11日の東日本大震災の際に、水戸市は震度6弱の地震に見舞われ、残念ながら武石浩玻の銅像が倒壊してしまいました。その様子を、『フォト蔵』というサイトで見ることができます。(これは、YANTAさんという方の投稿によるものです。)
 → 『フォト蔵』 倒壊した武石浩玻像(茨城県水戸市)
 そのうち修復再建されると思いますが、その時はまた新しい姿をご紹介したいと思います。(2011年11月27日追記)
 (注)再建された姿が、注17に出ています。
   
    16.  水戸一高の同窓会『知道会』のホームページにも、倒壊した武石浩玻の銅像の写真が出ています。(2011年12月17日追記)
 → 倒壊した武石浩玻の銅像
  お断り:残念ながら現在は見られないようです。
   
    17.  2011年3月11日の東日本大震災で倒壊した武石浩玻の銅像は、その年の秋には、場所を江山閣の脇に移して、低い台座の上に据えられたそうです。 その写真を『フォト蔵』というサイトで見ることができます。(これは、YANTAさんという方が9月10日に撮影された写真だそうです。)
 →『フォト蔵』  
 → 再建された武石浩玻銅像  
 大空を羽ばたいた武石浩玻の銅像は、やはり大空を仰いで高く建っていたほうが似つかわしい、という気もしますが、どうでしょうか。そのうち小生も新しい写真を撮りに出かけたいと思っています。(2012年4月17日)

 江山閣脇の低い台座に据えられている武石浩玻の銅像の解説板の文言を、次に掲げておきます。
  武石浩玻像    
   武石浩玻(本名道之介、1884~1913)は、民間パイロットとして最初に日本の空を飛んだ人物である。茨城県那珂郡勝倉村(現ひたちなか市勝倉)に生まれ、明治35年茨城県立水戸中学校卒業後、新天地アメリカに渡った。同41年フランス人飛行士ルイ・ポーランの飛行に魅せられ、飛行機に人生の望みを託すようになった浩玻は、飛行機に関する研究に没頭し、『飛行機全書』を執筆、同45年にはカーチス飛行学校に入学し、訓練の後、万国飛行免状を取得した。
 大正2年4月、祖国の空を飛びたいという希望を抱いて11年ぶりに帰国し、大阪朝日新聞社と都市連絡飛行の契約を結んだ。同年5月3日、鳴尾での旋回飛行に成功するが、翌4日の鳴尾─大阪─京都間の都市連絡飛行に挑み、京都深草練兵場に着陸する寸前、地上に激突して絶命した。享年28歳。民間飛行家として最初の犠牲者でもあった。1903年にライト兄弟が飛行機を発明してから10年目の出来事だった。
 同年末、菊池謙二郎校長らが発起人となって本校に飛行服姿の武石浩玻像が建立されたが、平成23年3月11日の東日本大震災で崩壊したので、今般全面修復し、移設した。
  平成23年10月        茨城県立水戸第一高等学校
   
       
   
    18.  フィルムが見つかりましたので、武石浩玻の銅像の写真を追加しておきます。撮影日は、上に挙げたのと同じく昭和44年(1969)11月2日です。(2012年6月3日)

    
武石浩玻の銅像2→拡大) 武石浩玻の銅像3→拡大武石浩玻の銅像4→拡大)

           
 武石浩玻の銅像(頭部1)→ 拡大 武石浩玻の銅像(頭部2→ 拡大

      (撮影日:昭和44年(1969)11月2日)


 
    19.  平成27年2月14日(土)から3月22日(日)まで、水戸市立博物館に於て、特別展『あこがれの空へ 民間パイロットの先駆け 武石浩玻』が開催されました。
 特別展のチラシから、紹介文を引かせていただきます。

 今から102年前、空を飛ぶことへのあこがれを実践へ移し、大いなる冒険心を持って挑んだ青年たちがいました。茨城県水戸中学校(現・水戸一高)を卒業後、渡米して飛行家を志した武石浩玻(1884~1913)もその一人でした。大正2(1913)年、自らの飛行機を携えて帰国した武石は、勇躍して日本の空を飛び、日本航空界の黎明期に民間パイロットの先駆けとして名をあげました。しかし、その飛行会最終日の「都市連絡飛行」において、着陸寸前に墜落、28歳の生涯を閉じました。衝撃的な武石の最期に日本中が騒然としました。しかしそれは、日本の飛行機に対する熱を一層高めるものとなったのです。
 展覧会では武石浩玻の功績や人となりを中心に、武石以後、その後を追うように民間パイロットとなった、同窓の先輩海野幾之介らについても紹介します。 

 
 なお、同展の図録(80頁)が発行されています。(2015年3月29日付記)
   
    20.  水戸市立博物館のホームページの、特別展『あこがれの空へ─民間パイロットの先駆け・武石浩玻─』の紹介ページは、次の通りです。
 水戸市立博物館
 → 特別展『あこがれの空へ─民間パイロットの先駆け・武石浩玻─』
   
    21.  平成27年(2015年)8月27日の茨城新聞に、茨城大学名誉教授の佐々木靖章氏が武石浩玻の日記を自費出版された、という記事が出ていました。
 「空飛ぶ冒険者 武石浩玻『米国日記』」(B5判270ページ、2700円)(2015年8月28日付記)
   







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