資料200 宮沢賢治「雨ニモマケズ」




 

 

    雨ニモマケズ   
                       宮 澤 賢 治
   
  雨ニモマケズ
風ニモマケズ
雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ
丈夫ナカラダヲモチ
慾ハナク
決シテ瞋ラズ
イツモシヅカニワラ
テヰル
一日ニ玄米四合ト
味噌ト少シノ野菜ヲタベ
アラユルコトヲ
ジブンヲカンジ
ウニ入レズニ
ヨクミキキシワカリ
ソシテワスレズ
野原ノ松ノ林ノ蔭ノ
小サナ萱ブキノ小屋ニヰテ
東ニ病氣ノコドモアレバ
テ看病シテヤリ
西ニツカレタ母アレバ
テソノ稻ノ束ヲ負ヒ
南ニ死ニサウナ人アレバ
テコハガラナクテモイヽトイヒ
北ニケンク
ヤソシウガアレバ
ツマラナイカラヤメロトイヒ
ヒドリノトキハナミダヲナガシ
サムサノナツハオロオロアルキ
ミンナニデクノボートヨバレ
ホメラレモセズ
クニモサレズ
サウイフモノニ
ワタシハ
ナリタイ
   

 

 

 

 

 

 

  (注) 1.  上記の詩の本文は、新潮文庫『日本近代詩鑑賞 昭和篇』(吉田精一著、昭和29年2月5日発行、昭和29年5月20日2刷)によりました。
 ただし、「イイトイヒ」「ヒデリノトキハ」「デクノボウ」を、他の資料によって「イヽトイヒ」「ヒドリノトキハ」「デクノボー」と改めてあります。                       
   
    2.  吉田精一氏の上掲書に、「この詩は賢治の作品中最も有名なもので、花巻町に建てられた彼の詩碑にも、高村光太郎の書によつて刻まれてゐる。この作品は佐藤隆房の『宮澤賢治』によれば、昭和六年十一月三日、(賢治三十六歳)病臥中、鉛筆で手帳に書きつけたものだといはれる。しかしその見出されたのは彼の没後である。初号活字のやうな大きな文字で、バラバラと書かれたものであつた」とあります。(同書30頁)    
    3.  新潮文庫『現代詩の鑑賞 下巻』(伊藤信吉著、昭和29年4月30日発行、昭和32年2月20日7刷)に、「この詩には題がなく、賢治の存命中は誰も知らない作品であつた。「雨ニモマケズ」という標題は仮に私が付けたのであつて、他の出版物などに、「雨ニモマケズ」その他の標題が付けてあるとすれば、それも便宜的にそういう仮題を付けたのにすぎない。これは遺されたノートのなかから発見されたもので、このノートは昭和六年の生活を記録し、他にもいくつかの詩が書きつけてあつた。そして「雨ニモマケズ」は昭和六年十一月三日の記録である。」とあります。(同書34頁)    
    4.  賢治の手帳には、「ワラテヰル」「カンジウニ入レズニ」「行テ看病シテヤリ」「行テソノ稻ノ束ヲ負ヒ」「行テコハガラナクテモイヽトイヒ」「ケンク」「ソシウ」などの促音・拗音の仮名は小さく書かれているので、ここでもそのとおりにしてあります。(これまでこれらの仮名を大きく書いてありましたが、今回手帳のとおりに書き改めました。2023年10月11日)          
5. 『加藤恕(ひろし)のバードビュー(bird's eye view)』というサイトに、「宮沢賢治「雨ニモマケズ」の手帳」というページがあり、そこに賢治の手帳の写真が出ています。
 『加藤恕(ひろし)のバードビュー(bird's eye view)』
  →「宮沢賢治「雨ニモマケズ」の手帳」
    6.  「ヒドリノトキハナミダヲナガシ」の「ヒドリ」は、手帳には「ヒドリ」とあるのですが、普通はこれは「ヒデリ」の書き誤りとみて、「ヒデリノトキハナミダヲナガシ」と直して読んでいるようです。(このことについては、フリー百科事典『ウィキペディア』の「雨ニモマケズ」の項をご覧下さい。)
 なお、この「ヒドリ」の問題については、『宮沢賢治 Kenji Review』というサイトに、「特集「ヒドリ」誤記問題について」(第323号2005.04.30)という参考になるページがあります。
 また、『宮沢賢治 Kenji Review』に紹介されている『宮沢賢治学会・会報第30号』に、入沢康夫氏の「「ヒドリ─ヒデリ問題」について」
が掲載されていて、入沢氏は、「ヒドリ」は「ヒデリ」の書き間違いだとしておられます。(※ 現在は見られないようなので、リンクを外しました。2023年10月11日)
   
    7.  入沢康夫著『「ヒドリ」か、「ヒデリ」か 宮沢賢治「雨ニモマケズ』中の一語をめぐって(書肆山田、2010年5月25日初版第1刷発行)という本が出ています。(2012.6.27付記)                 
    8.  詩の6行目の「決シテ瞋ラズ」の「瞋ラズ」は、「いからず」と読みます。
   「玄米四合」の「四合」の読みについて
 
「玄米四合」の「四合」をどう読むかについては、「よんごう」「しごう」の二つの説があるようです。現在は普通に「よんごう」と読んでいる人が多いと思いますが、「しごう」と読むのが正しい、とする人もいるようです。確かに「いち、に、さん、し、ご、……」となることから言えば「しごう」となりそうですが、どういうものでしょうか。
 位階の「四位」も、「よんい」ではなく「しい」が正しいとされることを考えると、「しごう」と読むのがよさそうに思えますが、「しごう」という音が「四合」と結びつきにくい感じがあって迷うところです。私自身は深く考えることもなく、「よんごう」と読んでいますが、皆さんはいかがでしょうか。
 高島俊男著『
お言葉ですが…5 キライなことば勢揃い』(文春文庫)には、「しごう」と読むべきだ、とする意見が出ているそうですが、未見です。 
 ちなみに、手元にある齋藤孝著『声に出して読みたい日本語 2』(草思社、2002年8月6日第1刷発行)には、「よんごう」とルビが振ってあります。(同書、26頁)(2012年12月6日付記)
   
    9.   『WIKISOURCE』(ウィキソース)に、詩の末尾に「南無妙法蓮華経」の部分(南無無邊行菩薩/南無上行菩薩/南無多寶如来/南無妙法蓮華経/南無釈迦牟尼佛/南無浄行菩薩/南無安立行菩薩)の付いた「雨ニモマケズ」の本文があります。    
    10.  『花巻市』のホームページに、『宮沢賢治記念館』のページがあり、そこに「賢治の文学碑散歩」などがあります。    
    11.   フリー百科事典『ウィキペディア』「宮沢賢治」「雨ニモマケズ」の項があって、参考になります。(ただし、「雨ニモマケズ」の項に、「なお、戦争中から戦後にかけての文部省の国定教科書では当時の食糧難から「玄米四合」を「玄米三合」に改竄して掲載していた」とあるのは、「戦争中から戦後にかけての文部省の国定教科書では」でなく、「終戦直後の文部省著作教科書では」が正しいのではないでしょうか。)    
    12.  『宮沢賢治学会イーハトーブセンター宮沢賢治イーハトーブ館』というサイトがあります。    
    13.  中央大学文学部の渡部芳紀先生による『宮沢賢治を歩く』があります。
  
 今は見られないようです。                        
   
    14.  『国立国会図書館デジタルコレクション』の中に『妙法蓮華経 8巻』(8軸、鎌倉末期)が入っていて、画像で全巻を見ることができます。(画像をクリックすると、拡大画像になります。)    
    15.  『妙法蓮華経』(全文)は、日蓮宗妙福寺のサイトで読むことができます。    
    16.  宮沢賢治(みやざわ・けんじ)=(1896−1933)詩人・童話作家。岩手県生まれ。盛岡高等農林卒。花巻で農業指導者として活躍のかたわら創作。自然と農民生活で育まれた独特の宇宙的感覚宗教的心情にみちた 詩と童話を残した。生涯、法華経を敬信。童話「銀河鉄道の夜」「風の又三郎」、詩集「春と修羅」など。(『大辞林』第2版による)    
    17.  小学館発行の雑誌『サライ』2010年7月号に大特集「宮沢賢治を旅する」があり、そこに手帳の「雨ニモマケズ」の写真が出ています。(2010.6.21付記)    
    18.  読売新聞2012年(平成24年)4月22日の日曜版「よみほっと」の「名言順礼」に宮沢賢治の「雨ニモマケズ」から「ホメラレモセズ クニモサレズ」という言葉が取り上げられており、その中に、この詩の解釈・評価について次のように書かれています。大変よくまとめてあると思いますので、ちょっと長くなりますが引用させていただきます。(筆者は、松本由佳記者)

 
  解釈 時代が翻弄
 
「雨ニモマケズ」は、様々な論争を生み、時代に翻弄されてきた作品でもある。
 哲学者の谷川徹三は1936年、この詩に出合った時の感動を、「一ことで言へば彼の本質の中に詩人と共に賢者を見たのである」と記し、偉人的な賢治像や作品の文壇的評価を先導した。
 やがて、「雨ニモマケズ」は中学校の国語教科書に掲載され、戦中戦後を通して、国民に滅私奉公や辛抱を強いる訓話として利用されることになる。食糧難の折、国は作中の「玄米四合」を「三合」に書き換えるほどの念の入れようだった。
  一方、詩人の中村稔は55年、「(賢治の)あらゆる著作の中でもっとも、とるにたらぬ作品のひとつ」と書き、この詩は羅須地人協会を始めとする賢治の理想主義の完全な敗北宣言であると断じた。その後も両者は互いの立場を批判し合い、「雨ニモマケズ論争」として話題を集めた。
  中村の論に対して、科学者の高木仁三郎は95年、羅須地人協会は賢治の実験の場であり、失敗ではあっても敗北ではない、と擁護。科学者は「涙を流したり、おろおろしたりしながら、地球の将来について考える」べきだと書く。
  また、「ヒデリノトキハナミダヲナガシ」が、手帳の原文では「ヒドリ」とあることから、「日雇い労働の日当」を指すのではないか、との新解釈が89年に発表されて反響を呼んだが、現在は「ヒデリ」がほぼ定着している。(2012年12月1日記)
   
    19.  「玄米四合」が「玄米三合」と書き換えられて教科書に載せられた時期について
 文部省発行の教科書に、「雨ニモマケズ」の「玄米四合」が「玄米三合」と書き換えられて掲載されたのは、戦時中のことだと、一般に考えられているようですが、際には戦後の昭和22年になってからのことだそうです。
 その教科書は、「中等国語一(1)」(昭和22年2月10日発行、同日翻刻発行)だそうで、その教科書の画像が、『みちのくの山野草』というブログの「1210一日に玄米三合」に出ています。
 『みちのくの山野草』
   → 
「1210  一日に玄米三合」 

 このことについては、国立国会図書館の「レファランス協同データベース」に、国立教育政策研究所教育研究情報センター教育図書館の提供で、〈「雨ニモマケズ」の「玄米四合」が「玄米三合」と書き換えられて掲載された教科書が戦時中の国定教科書に載っているはずだと思うが〉という質問と、それに対する回答が出ています。
 その回答によれば、「国定教科書に「雨ニモマケズ」の掲載はなし。戦後・文部省著作教科書で、昭和22年版は「玄米三合」、昭和24年と昭和25年には「玄米四合」に戻されたことは調査済みのため、戦中の国定教科書ではなく、戦後文部省著作教科書の間違いではないかと推測される」ということです。
 なお、この回答には「玄米四合」が「玄米三合」と書き換えられた事情(文部省著作「中等国語」の編者が「雨ニモマケズ」を採用した際に、GHQの指示で「玄米三合」に変更させられたこと)についての資料にも触れてありますので、ぜひご参照ください。
 →「レファランス協同データベース」(登録番号:1000110959)

 「レファランス協同データベース」の登録番号:1000047085に、「戦後中学生国語の教科書「中等国語一」に掲載されている宮沢賢治の「雨ニモマケズ」について、昭和22年と昭和23年に発行されたものには「玄米三合」と記載されていたが、その後「玄米四合」(オリジナル通り)に戻ったのはいつか」という質問があり、その回答に、「昭和23年まで“三合”であることがわかっているので、“四合”に戻ったのは昭和24年からと推測できる」とあります。
 →「レファランス協同データベース」(登録番号:1000047085)

 参考までに、戦時中の国定教科書に載っているはずだが、という質問をした人が根拠として挙げた(1)井伏鱒二の『黒い雨』の該当部分と、(2)『宮沢賢治研究資料集成 第18巻』を、次に引用しておきます。

 (1)小説『黒い雨』では、閑間重松
(しずま・しげまつ)の妻シゲ子の「広島にて戦時下に於ける食生活」と題した手記の一部となっている部分です。
 (この小説は、被爆者・重松静馬という人の『重松日記』と
被爆軍医・岩竹博の『岩竹手記』をもとにして書かれたそうですから、おそらく重松氏の『重松日記』にこのことが書かれていたのでしょうか。作者・井伏鱒二氏も、そういう話が当時巷間に広まっていたということでそのまま記録にとどめた、ということなのかも知れません。)

 
さて、主食の米麦の配給について申しますと、初めのころは一人あたり一日量三合一勺ぐらいだったと記憶いたします。間もなく米麦の代りに大豆が相当多く配給されるようになりまして、次いで外米や因果な大豆のしぼり滓(かす)が配給されるようになり、次第に減量されて大豆のしぼり滓が一日量二合七八勺になっておりました。
 最初の頃の配給米は玄米でございまして、瓶に入れて米搗棒で搗いて白米にしないと食べにくいので、ぶつぶつ不平を云いながら夜鍋仕事で瓶搗きしておりました。それで搗減りがして、三合一勺ぐらいの頃でも一人一日量が二合五勺強ぐらいになりました。
 たぶんその頃だったと思います。隣組の宮地さんの奥さんがその筋に呼出されてお叱りを受けたことがございました。宮地さんの奥さんは農家へ食糧を買出しに行くとき、可部行の電車のなかで隣の席の人に「このごろ配給米が三合になったので、うちの子供の教科書のなかにある言葉が改悪されました」と申されたそうでした。それは子供さんの教科書のなかにあった詩の文句が「一日ニ玄米四合ト……」となっていたのを、米の配給量と睨み合わして「一日ニ玄米三合ト……」と改訂されてあったから、そう申されたのだそうでした。後で奥さんから聞いた話ですと、その詩は宮沢賢治という詩人の代表的な作品で、農民の耐乏生活をよく理解した修道的な美しさの光っている絶唱であったということです。「一日に四合というのを、三合と書きかえるのは、曲学阿世の徒のすることです。子供がこの事実を知ったら、どういうことになりますか。おそらく、学校で教わる日本歴史も信じなくなるでしょう。もし宮沢賢治が生きかえって、自分で書きなおしたとすれば話はまた別ですが」と奥さんは仰有
(おっしゃ)っていました。しかし、かりそめにも国家の大方針のもとに編纂された国定教科書に関する問題でございます。その筋の人は奥さんに向って、「流言蜚語(ひご)は固く慎め。お前が闇の買出しに行った事実はわかっておる。そんな人間が、教科書のことに余計な容喙(ようかい)する資格はない。戦時下に於いて流言蜚語を放つ罪は、民法や刑法に抵触するばかりとは云われない」と云って、暗に国家総動員法に抵触すると云わんばかりであったそうでございます。もうそのころには、誰しも人前へ出たときには言葉に気をつけるようになっておりました。(新潮文庫『黒い雨』昭和45年6月25日発行、昭和60年6月10日36刷改版、昭和62年5月25日38刷による。66〜67頁。
 なお、『黒い雨』は、雑誌『新潮』の昭和40年1月号に『姪の結婚』という題で連載が始まり、同年8月号から『黒い雨』と改題、翌昭和41年9月号まで連載され、この年10月、新潮社から単行本として出版された。)

 (2)『宮沢賢治研究資料集成 第18巻』(続橋達雄編、日本図書センター・平成4年2月25日第1刷発行)所収の、藤島宇内「光をあててみたい宮沢賢治の一面」〔『現代詩手帖』第6巻第6号、昭和38年6月〕

 
第二次大戦中、「雨ニモマケズ」が教科書に採択されたときは、「一日ニ玄米四合ト」を「一日ニ玄米三合ト」に改作しさえすれば十分に戦争目的に役立ったというのは、どういう意味をもつのか。(同書、7〜8頁)

 
これも、「第二次大戦中、「雨ニモマケズ」が教科書に採択されたとき」、「「一日ニ玄米四合ト」を「一日ニ玄米三合ト」に改作し」たというのは、何かの間違いなのでしょうか。(2012年12月8日付記)
   
    20.   「玄米三合」として「中等国語一(1)」に掲載された「雨ニモマケズ」の本文を、次に示しておきます。
 
平仮名の「く」を縦に伸ばした形の繰り返し符号は、普通の仮名に直してあります。(「おろおろ」)  

     三  雨にもまけず 

  雨にもまけず、
  風
にもまけず、
  雪にも夏の暑さにもまけぬ、
  じょうぶなからだをもち、
  欲はなく、
  けっして怒らず、
  いつもしずかに笑っている。
  一日に玄米三合と、
  みそと少しの野菜をたべ、
  あらゆることを、
  じぶんをかんじょうに入れずに、
  よくみききしわかり、
  そしてわすれず、
  野原の松の林の陰の、
  小さなかやぶきの小屋にいて、
  東に病氣のこどもあれば、
  行って看病してやり、
  西につかれた母あれば、
  行ってその稻のたばを負い、
  南に死にそうな人あれば、
  行ってこわがらなくてもいいと言い、
  北にけんかやそしょうがあれば、
  つまらないからやめろと言い、
  ひでりのときはなみだを流し、
  寒さの夏はおろおろあるき、
  みんなにでくのぼうとよばれ、
  ほめられもせず、
  くにもされず、
  そういうものに、
  わたしは、
  なりたい。
   
    21.  戦後の昭和22年に、「玄米四合」を「玄米三合」として国定教科書「中等国語一(1)」に掲載したのは、編集を担当した石森延男氏であることが分かっています。そこには、止むを得ない事情があったのですが、石森氏はそのことで多くの詩人や評論家から非難されたそうです。しかし、石森氏は「今でも、わたしは、「雨にも負けず」をかかげてよかったと信じている」と書いておられます。
 石森氏の名誉のためにも、そのことを記した氏の「「麦三合」の思い出」という文章から、それに直接関係した部分を、少し長くなりますが引用させていただきます。(『宮沢賢治研究資料集成 第12巻』(続橋達雄編、
日本図書センター・平成4年2月25日初版第1刷発行)による。同書、349〜350頁)

 
  (前略)
 戦後、わたしは、国定の国語教科書としては、最後のものを編集した。終戦前に使用していた国語教材とは、全く違った基準によってその資料を選ばなければならなかった。日本の少年少女たちの心に光を与え、慰め、励まし、生活を見直すような教材を精選しなければならなかった。そこでわたしは、まずアンデルセンの作品を考えた。「みにくいあひるの子」「マッチ売りの娘」それから、中学生のために「即興詩人」をとりあげた。日本のものでは、賢治の作「どんぐりと山猫」を小学生に「雨にも負けず」を中学生のために、「農民芸術論」を高校生のために、それぞれかかげることにした。この三篇は、新しく国語を学ぶ子どもたちの伴侶にどうしても、したかったからである。
 ところがCIEの係官は、このいずれも、認めてはくれなかった。理由は、子どもには難かしいというためであった。やや古典的な匂いのするこれらの作品は、やや高度であるかもしれないが、少年少女たちの魂になんとしてでも触れさせたい文章なので、押して、押して、CIEの係官に承知させた。そのとき、係官は、
  「一日ニ玄米四合ト 味噌ト少シノ野菜ヲタベとあるが、玄米一合減して、三合にすることはできないか。」
といいわたされた。詩の、文字修正は出来かねるといいはったが、「それでは、いまの現状とは、あわないではないか。実感が伴わないことになる。贅沢な主食と子どもたちに思われないか。」と理攻めで反問してきた。当時は、一日に米の配給は、三合どころか、一合もない時代であった。そこで、わたしは賢治の弟さんの清六さんに会いに花巻までいった。そうしてこのことを相談すると、
 「かまいませんよ、兄は、そんなことにこだわりません、笑ってるでしょう。」
と、快く認めてくれた。一字のために全文を削除されるよりは、少しの改めをしても、その精神を、子どもたちに味ってほしくて、中学一年の教科書に掲げた。それを見つけた、多くの詩人たちから、また評論家たちから、わたしは詩感がないといってさんざん叩かれた。いやしめられた。けれども、今でも、わたしは、「雨にも負けず」をかかげてよかったと信じている。清六さんと賢治の詩碑のそばでうでた枝豆をたべた愉しさを忘れることはできないのである。
  〔『宮沢賢治全集』月報第1号、昭和33年7月、筑摩書房〕

 引用者注: CIEとは、Civil Information and Educational Sectionの略称で、第二次大戦後、日本占領中のGHQ(連合国軍総司令部)に置かれた民間情報教育局。教育・宗教・マスコミなどの改革を担当。(『広辞苑』第6版による。)(2012年12月8日付記)
   
    22.  中地 文氏(宮城教育大学准教授)の「教育面における「賢治像」の形成」『宮沢賢治没後七十年の展開(あゆみ)  修羅はよみがえった』(宮沢賢治記念会、2007年9月21日初版第1刷発行)所収〕という論文にも、「六・三・三制の新学期が発足した翌22年度、文部省は小・中・高それぞれの学校用に新教科書を発行、(中略)中学校用の『中等国語一』(22年2月)に「雨にもまけず」が掲載され」たとあり(同書、92頁)、また、「教科書編纂の過程で、連合国軍総司令部民間情報教育局の係官から「雨にもまけず」の「玄米四合」を三合にするように言われ、宮沢家に了解を取りに行ったのは石森延男であった。そのときの状況を回想した「「麦三合」の思い出」に、石森は「一字のために全文を削除されるよりは、少しの改めをしても、その精神を、子どもたちに味ってほし」かったと記している。ここにみられる「精神」を重視する考えは、内容を第一とした表現には必要に応じて手を加えた小学校教科書の編集方針と重なるものといえる」とあります(同書、94頁)。(2012年12月8日付記)    
    23.  「一日ニ玄米四合」は多過ぎないか、という意見について
 
「雨ニモマケズ」の中に「一日ニ玄米四合」とあることについて、「四合」は多過ぎるのではないかという疑問があるようです。これについては、「一日ニ玄米四合ト味噌ト少シノ野菜」だけというお米中心の食事では、農作業も機械による省エネなどなかった当時の労働としてはカロリーが足りず、決して多過ぎるものではない、という意見が出されています。
 ちょっと気になりましたので、付け加えておきます。(2012年12月9日付記)
   

 

 








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