資料193 黒澤止幾子「献上の長歌」(天子江奉献長歌)



 


  
天子奉献長歌(天子え献じ奉る長歌)

ちはやぶる神代のむかし神々のしづめ玉ひし
あきつしま實にもたふとき日のもとの
きよき光りは古しへも今も千とせの末迄も
かはらぬ君が御代なるを斯とはいさやしら波の
寄せ來る如に異國のことうき舟のゑみしらが
しゆる願ひをつどつどにうけ引國のあやまちは
ゐいといふ士の心から御國のおものはみながら
おさおさしくもおもほえずあやなくまどふ
ぬば玉のくろきまなべをかたらひていさほしあれど
咎のなきかしこき君を押こめてこがねのいろを
やまぶきの花ちる如にまきちらしおもき雲上を
恐れなきたくみのほどぞあさましきあさき工も
自から浮世の人のことのはにかゝるあくじを傳へきく
身は下ながら天照らす神の御末をくみてしる
いさほしありし藤原の流れの末の我なれば
聞ずてならずとしたけて五ツの四ツになりぬれど
七十路三ツの母そはの玉のよはいを見まほしと
おしへの道を業としてほそきけぶりのたち居よく
朝な夕なに仕へしもことをつばらに語ひて
しばしのいとまこひければともに心をそへられて
御國の爲に時を得ば早とく行と老樂の言葉
もすぐに力ぐさ露をふくみしあさぼらけ
日もたち出る衣手のひたちを出て敷しまの
みちある御代をしたひつゝ杖を力の旅のそら
たどるも君が御代のためおもひつゞけし
おひが身の矢たけ心ははるの野を行も歸るも
あづさ弓はるけき道を笹がにの糸もたゆまず
引はへて雲の上迄かけ橋を渡るおもひは天ざかる
ひなに生れしちりの身のちりつもりてふ山の井の
ふかき心のみなもとは流れてきよき丸みつの
中にすみぬる魚心つたなき身をも忘れつゝ
み國のためと朝夕に千々に心はくだけども
只ひとすじに行水のせみの小川に御禊して
はるばるきぬる旅衣あか月ながらうぐゐすの
初音のけふのことぶきや野末に匂ふ梅が香を
あまつ雲まで傳へあげ恐れ多くも
久かたの雲上の庭にぬかづきて恐み々々謹て
もふす言の葉奉るなり
             反歌
 よろづ代を照らす光りの十寸鏡
 さやかにうつす賤が眞心
 あづさ弓はるけき道を笹がにの
 糸もたゆまず雲の上まで
 きよみがたきよらにすめる有明の
 月にくらべむ日本ごゝろを
 衣手のひたちを出て敷しまの
 みちある御代をたづねてぞとふ
  安政六年    黑澤李恭
    未三月     頓首再拜
                                     
          

 

 

 

 


  (注) 1.  上記の黒澤止幾子「献上の長歌」(天子奉献長歌)の本文は、『幕末に於ける女流勤皇家の泰斗 近世に於ける婦人教育家の元祖 贈從五位 李恭女史と献上の長歌』(昭和11年9月、編輯発行兼印刷人 立林宮太郎、茨城県赤塚 李恭會)によりました。
 これは、1枚の横長の紙を三つ折りにした印刷物です。「献上の長歌」の解説、自筆の長歌の写真、長歌を活字に起こしたもの、長歌の註釈などが収めてあります。
   
   
    2.  上記の『贈從五位 李恭女史と献上の長歌』所載の自筆の「天子奉献長歌」の写真には、長歌38行、反歌8行、年月2行の、全48行が上下二段に書かれています。
 歌の改行は写真の通りにしてあります。(ただし、本文の歌の表記は、写真の通りではありません。変体仮名などは普通の仮名に直してあり、原文にはない濁点も施してあります。「つどつど」「おさおさ」「はるばる」の繰り返し部分、「恐み々々」の「々々」は、原文では平仮名の「く」を縦に伸ばした形の踊り字になっています。)
   
    3.  上記の立林宮太郎氏の註釈を参考にさせていただいて、長歌の語句の注を記しておきます。(お気づきの点をご教示いただければ幸いです。)                 
 〇ちはやぶる……「神」にかかる枕詞。  
 〇しづめ玉ひし……鎮定なさった。

 〇あきつしま……秋津洲・秋津島・蜻蛉洲。日本の異称。「あきづ」(平安以後アキツとも)はトンボの古名。古くは「あきずしま(あきづしま)」。   
 〇實にも……「げにも」。まことに。いかにも。         
 〇かはらぬ君が御代……わが日本が万世一系の天皇が治めたまう国である、ということ。   
 〇斯とはいさやしら波の……「斯」は「かく」。そうだとは知らないところの。外国はみな興亡常なく、万世一系などということは知らない、と言っている。(「いさや」は、副詞「いさ」に間投助詞「や」のついたもの。「いさ」は、下に打ち消しの語を伴って「さあ、どうだか知らないが」の意を表す。「しら波(白波)」の「しらな」に、「知らな」を掛けている。)   
 〇異國の……「ことくにの」。   
 〇ことうき舟のゑみしらが……浮沈興亡定めなき夷人どもが。   
 〇しゆる願ひ……嘉永安政の間に、英米仏露その他の外国が、交易条約締結を強要したこと。「しゆる」は、上二段活用の動詞「しふ(強ふ)」の連体形「しふる」の訛りと考えられます。  
 〇つどつどに……「都度都度に」。そのたびごとに。   

 〇うけ引……「うけひく」。承認する。  
 〇ゐいといふ士……井伊という者。井伊直弼のこと。   
 〇御國のおものはみながら……わが国の食禄を受けながら(意気地なく外夷の威嚇に恐れ惑って)。   
 〇おさおさしくも……「長々しくも(をさをさしくも)」。「長々し」は、「一人前にしっかりしている」の意。  
 〇 ぬば玉の……「くろ」にかかる枕詞。  
 〇まなべ……間部詮勝
(まなべ・あきかつ)のこと。幕末の幕府老中。越前鯖江藩主。下総守。1858年(安政5)大老井伊直弼の命をうけ、条約調印・将軍継嗣問題で上洛、反幕志士数十人を逮捕した。(1802~1884)(この項、『広辞苑』第6版による。)          
 〇かしこき君……水戸烈公、徳川斉昭を指す。   

 〇押こめて……「おしこめて」。幽閉して。  
 〇こがねのいろを云々……黄金を、山吹きの花が散るように撒き散らして(要路の人物を買収して)。   
 〇おもき雲上……「おもき」は、貴い。「雲上」は「くもへ(くもえ)」。(あるいは、「くもゐ(くもい)」と読ませたものか。)朝廷、即ち天皇を指す。  
 〇たくみのほどぞ……「たくみ」は、たくらみ。くわだて。   
 〇あさき工……「工」は「たくみ」。浅はかな考え・てだて・くわだて。   
 〇自から……「おのづから」。   
 〇傳へきく身……作者自身をいう。   

 〇下ながら……「下」は「しも」。  
 〇藤原の流れの末……女史の祖先は、藤原頼定の末裔という。  
 〇五ツの四ツ……五十四歳。  
 〇七十路三つ……「ななそぢみつ」。七十三歳。     
 〇母そはの……「ははそばの」とも。「ははそはの」で、「母」にかかる枕詞であるが、ここは「母そは」で「母」の意。(「ははそ(柞)」は、コナラ・クヌギ・オオナラなどの総称。)   
 〇玉のよはい……「よはい」は「よはひ」(齢)。

 〇おしへの道……教育。   
 〇業として……「業」は「わざ」。   
 〇ことをつばらに……事の次第を詳しく。   
 〇早とく行と……「とく」は「疾く」で、すぐ。すみやかに。「行」は、「行け」と読む。     
 〇力ぐさ……「力草」「力種」。力と頼むもの。頼み。力頼みにする、よりどころ。     
 〇あさぼらけ……安政6年2月22日の早朝を指す。  

 〇衣手の……「ころもでの」。「ひたち(常陸)」にかかる枕詞。      
 〇ひたちを出て……「出て」は、「いでて」。郷里の常陸国錫高野を出て。  
 〇敷しまのみちある御代……わが日本の、道理の行われている朝廷。  
 〇おひが身の……「おひ」は「おい(老い)」。  
 〇矢たけ心……「やたけ」は、「いやたけ」の転で、ますます勇み立つさま。「やたけ心(弥猛心)」で、ますます勇み立つ心。勇猛心。「矢」は当て字。    

 〇あづさ弓……「はる」にかかる枕詞。
 〇笹がにの……「糸」にかかる枕詞。「ささがに(細蟹)」は、蜘蛛
(くも)の異称。平安時代以降、形が小さいカニに似ているところからいう。枕詞の「ささがにの」は、奈良時代の「ささがねの」の転。(余談ながら、「ささがねの」は「ささがにの」の古形とされますが、「小竹
(ささ)が根の」と解して枕詞とはとらない説もあります。わがせこが来べき宵なりささがねの蜘蛛の行ひ今宵著(しる)しも<允恭紀>)   
 〇雲の上……朝廷。  
 〇天ざかる……「ひな(鄙)」に かかる枕詞。   

 〇丸みつ……水戸徳川家の馬印。「馬印」は、戦陣で、大将の馬の側に立ててその所在を示す目印としたもの。豊臣氏の千成瓢箪
(せんなりびょうたん)、家康の開き扇の類。   
 〇魚心……俗に「水心あれば魚心あり」という。恩義に対する感謝の念。ひいては、忠義の志。  
 〇せみの小川……瀬見の小川。京都市左京区下鴨の東部を流れる細流。蝉の小川。   
 〇御禊して……「御禊」は、「みそぎ」。決死の覚悟を以て、の意。     
 〇はるばる きぬる……「きぬる」に「来ぬる」と「着ぬる」を掛け、「着ぬる旅衣」と、下に続く。伊勢物語に「唐衣きつつなれにし妻しあればはるばる来ぬる旅をしぞ思ふ」とある。古今集巻九にも出ている。    
 〇あか月ながら……「あか月」は、「あかつき(暁)」と「垢付き」とを掛けている。旅衣に垢の付いたことと、暁の御禊とを掛けて言っている。    
 〇うぐゐす……うぐひす(鶯)。   
 〇野末に匂ふ梅が香……女史の志、勤皇の一念をいう。   
 〇久方の……ここは、「雲」にかかる枕詞。   
 〇雲上の庭……「雲上」は「くもへ(くもえ)」。(あるいは前にも書いたように、「くもゐ(くもい)」と読ませたものか。)「雲上の庭」で、朝廷。  

 〇恐み々々……「恐み」は、「かしこみ」。     
 〇よろづ代を照らす光り……ここは、天皇の大御心。    
 〇十寸鏡……ますかがみ。真澄鏡。「ますみのかがみ」の転。「まそかがみ」とも。きれいに澄んではっきり映る鏡。     
 〇きよみがた……地名。清見潟。静岡県清水市興津の海岸。三保の松原を南方に望み、風光明媚。「更級日記」「十六夜日記」などに見える。歌枕。
   
    4.   立林宮太郎氏の『贈從五位 李恭女史と献上の長歌』から、立林氏が「註釈」の最後に載せておられる長歌全篇の要旨を引かせていただきます。
 全篇の意味を略言すれば、千早振る神代の昔、神々の鎮撫経綸し給ひたる神州日本は、万世一系の天皇これを統治し給ふ世界無比の国体で、外国とは自から其趣を異にする。然れどもこれを知らぬ夷人どもが不当な要求に対して、上陛下の御允も待たず、加之、水戸烈公の如き人材を陥れて、幕府役人の横暴専断な振舞は国を謬つ基である。身は卑賤ながらも藤原の流れを汲む私として、此の国難を黙止する訳には往かぬ。何卒、陛下の思召に依て烈公の冤罪を正され、正しき政治の行はれまするやうに歎願し奉る次第であります、との意。
   
    5.  黒澤止幾子(くろさわ・ときこ)は、わが国初の女性教師といわれる人です。
 文化3年(1806)12月21日、常陸国茨城郡高野村の宝寿院で、修験者黒澤光仲の長女として生まれた。名は、止幾子のほか、止幾、登幾子など。家は、私塾(寺子屋)を営んでいた。2歳のとき、父母が離婚、止幾子は祖父や養父から漢学や国学を学んで成長した。19歳で結婚、2女をもうけたが、26歳の時に夫と死別、子を連れて実家に戻り、母に子を預けて、櫛やかんざしなどの行商をしながら貧しい家計を支えた。行商は地元だけでなく、大洗から、群馬の草津など、広く関東一円に及び、20年もの長きにわたって続けられた。余暇には俳諧・狂歌・和歌などを学んだ。嘉永4年(1851)には、群馬草津の宿・菊屋に滞在し、宿の主人に請われて家庭教師として読み書きを教えた。翌嘉永5年には、隣村塩子において、土地の有志に請われて2年半にわたって子弟の教育に当たった。安政元年(1854)8月、郷里に帰り、養父のあとを継いで私塾の師匠としてその経営に当たった。安政の大獄の際には、藩主水戸斉昭の無実を訴えんと、安政6年(1858)2月22日、単身京都へ旅立った。「献上の長歌」を公卿・前大納言総長卿を通じて朝廷に届けようとしたが、総長卿が謹慎中であったため、その紹介で座田右兵衛大尉(座田維貞・漢学者)に託した。その後、京都を逃れ大阪に移ったが、水戸藩の密使の疑いで捕らえられ、江戸に移送され、吉田松陰が収監されていた江戸伝馬町の獄舎に収監された。安政6年10月27日、松陰が処刑された当日、中追放
(ちゅうついほう)(江戸十里四方<日本橋から五里以内>・山城国・ 常陸国への出入り禁止)の処罰を受け、釈放された。年末、密かに自宅に戻り、老母に仕え、子弟の教育に当たった。明治5年(1872)5月、錫高野小学校が開設されると、自宅を教場にあて、女性として初めて、教師として任用された。明治7年(1874)5月、校舎が新築され他に移転したのを機に教師を辞し、専ら私塾の経営に当たった。 明治8年(1875)2月3日、特旨を以て終身禄(現 米10石)を下賜された。明治 23年(1890)5月8日、85歳(満83歳)の波瀾に富んだ生涯を閉じた。没後17年経って、明治40年(1907)11月、従五位を贈られた。
(以上の記述は、小林信厚著『黒澤登幾子伝』、パンフレット「日本初の女性教師 幕末の女傑 黒澤止幾子」、茨城新聞社発行『茨城県大百科事典』によりました。)
 
 「黒澤止幾子」の「澤」は、「沢」ではなく、「澤」が正しい表記です。
 (黒沢止幾子・黒沢登幾子 → 黒澤止幾子・黒澤登幾子)
   
    6.  『国立国会図書館デジタルコレクション』の中に『古今名誉実録 第九巻』があり、その中に「黒澤登幾子(烈女艱苦の実録)」が出ています(29~33 / 69)。 
 『古今名誉実録』は春陽堂の発行で、月刊、第九巻は明治27年1月26日の発行です。  
   
    7.  立林宮太郎著『黒澤李恭』(李恭会、昭和12年発行)があります。    
    8.  小林信厚著『黒澤登幾子伝』(昭和40年4月1日初版発行、昭和59年12月1日改訂版発行)があります。    
    9.  贈従五位黒澤李恭(黒澤止幾子)女史贈位三十年記念碑(碑文)が資料194にあります。    
    10.  『常陽藝文』の№106(1992年3月号、常陽藝文センター、平成4年3月1日発行)の藝文風土記に、「勤皇の女傑・日本初の女性教師   黒澤止幾子と桂村錫高野」が掲載されています。    
    11.  『茨城史林』第25号(筑波書林、平成13年6月3日発行)に、安蔵良子氏の「黒沢止幾子の生涯と思想」という論文が掲載されています。「おわりに」によれば、これは氏の筑波大学大学院修士論文をもとに執筆されたものの由です。    
    12.  『黒澤止幾(とき) 日本初の女性教師』というサイトがあって、大変参考になります。ここで、黒澤止幾の肖像写真や生家の写真、詳しい経歴、止幾の和歌と俳句、黒澤止幾年譜、黒澤清一氏が描いた京都へ旅立つ止幾の肖像画、江戸の獄中で書いた漢詩や御構場所申渡書・終身禄御墨付・従五位贈位記伝達書、止幾の墓などの写真を見ることができます。(2007年11月25日付記)     
    13.  2010年(平成22年)7月21日(水)~8月3日(火)、茨城大学図書館企画展「茨城初の女性教師 黒澤止幾子」が開かれました。ここに「茨城初の」としてあるのは、まだ全国的に調査が行き届いていないので、という理由からだそうです。
 企画展案内のパンフレットから、黒澤止幾子の紹介文を引かせていただきます。

 
黒澤止幾子
  文化3年(1806)、常陸国水戸藩領茨城郡高野村(現在の茨城県東茨城郡城里町錫高野)生まれ。名は「止幾」「とき」「登幾」「登幾子」「時子」「と起子」など。雅号は「李恭」。
   26歳で夫と死別後実家に戻り、行商で生活を支える一方、俳諧や和歌など学問に励
み、安政元年49歳で実家の寺子屋を継いだ。
  安政6年、54歳のとき安政の大獄で蟄居を命じられた前水戸藩主・徳川斉昭の無実 を朝廷に直訴しようと単身京都へ赴き、朝廷に長歌を献上するも大阪で幕府方に捕えられ、取り調べの後追放され帰郷する。
   明治5年、学制発布で寺子屋だった自宅が小学校に指定され、66歳で茨城初の女性教師に任命された。退任後も私塾を開き、明治23年(1890)、85歳で没するまで郷里の子弟の教育に情熱を注いだ。
   寺子屋であった生家は現在も保存されている。
   引用者注:パンフレットに雅号が「季恭」となっているのを、誤植と見て「李恭」と改めました。 (2010年7月27日)

 
   

   
        
       

        
      
   

 

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