資料180 松尾芭蕉「鹿島紀行」



         鹿島紀行                   松 尾 芭 蕉

     

 らく(洛)の貞室(ていしつ)、須磨のうらの月見にゆきて、「松陰(まつかげ)や月は三五(さんご)や中納言」といひけむ、狂夫(きやうふ)のむかしもなつかしきまゝに、このあきかしまの山の月見んと、おもひたつ事あり。ともなふ人ふたり、浪客(らうかく)の士ひとり、ひとりは水雲(すゐうん)の僧。僧はからすのごとくなる墨のころもに、三衣(さんえ)の袋をえりにうちかけ、出山(しゆつざん)の尊像をづしにあがめ入(いれ)テうしろに背負(せおひ)、柱杖(ちゆうぢやう)ひきならして、無門(むもん)の関(くわん)もさは(障)るものなく、あめつちに独歩していでぬ。いまひとりは僧にもあらず、俗にもあらず、鳥鼠(てうそ)の間(かん)に名をかうぶりの、とりなきしまにもわたりぬべく、門(かど)よりふねにのりて、行德(ぎやうとく)といふところにいたる。ふねをあがれば、馬にものらず、ほそはぎのちからをためさんと、かちよりぞゆく。
 甲斐のくによりある人の得させたる、檜もてつくれる笠を、をのをのいたゞきよそひて、やはたといふ里をすぐれば、かまがいの原といふ所、ひろき野あり。秦甸(しんでん)の一千里とかや、めもはるかにみわたさるゝ。つくば山(やま)むかふに高く、二峯ならびたてり。かのもろこしに双劔(さうけん)のみねありときこえしは、廬山の一隅也。
  ゆきは不レ申先(まづ)むらさきのつくばかな
と詠(ながめ)しは、我(わが)門人嵐雪が句也。すべてこの山は、やまとたけの尊の言葉をつたえ<へ>て、連歌する人のはじめにも名付(なづけ)たり。和歌なくばあるべからず、句なくばすぐべからず。まことに愛すべき山のすがたなりけらし。
 萩は錦を地にしけらんやうにて、ためなかが長櫃(ながびつ)に折入(をりいれ)て、みやこのつとにもたせけるも、風流にくからず。きちかう・をみなへし・かるかや・尾花みだれあひて、さをしかのつまこひわたる、いとあはれ也。野の駒、ところえがほにむれありく、またあはれなり。
 日既に暮(くれ)かゝるほどに、利根川のほとり、ふさといふ所につく。此(この)川にて鮭の網代(あじろ)といふものをたくみて、武江(ぶかう)の市(いち)にひさぐもの有(あり)。よひのほど、其(その)漁家(ぎよか)に入(いり)てやすらふ。よるのやどなまぐさし。月くまなくはれけるまゝに、夜舟(よぶね)さしくだしてかしまにいたる。
 ひるよりあめしきりにふりて、月見るべくもあらず。ふもとに根本寺(こんぽんじ)のさきの和尚、今は世をのがれて、此(この)所におはしけるといふを聞(きゝ)て、尋入(たづねいり)てふしぬ。すこぶる人をして深省(しんせい)を發せしむと吟じけむ、しばらく清淨の心をうるににたり。あかつきのそらいさゝかはれけるを、和尚起し驚シ侍れば、人々起出(おきいで)ぬ。月のひかり、雨の音、たゞあはれなるけしきのみむねにみちて、いふべきことの葉もなし。はるばると月みにきたるかひなきこそほゐ<い>なきわざなれ。かの何がしの女すら、郭公(ほとゝぎす)の歌得(え)よまでかへりわづらひしも、我(わが)ためにはよき荷擔(かたん)の人ならむかし。

                     和 尚
  お<を>りおりにかはらぬ空の月かげも
    ちゞのながめは雲のまにまに

  月はやし梢は雨を持(もち)ながら   桃 靑
  寺に寐てまこと顔なる月見哉       同
  雨に寝て竹起(おき)かへるつきみかな  ソ ラ
  月さびし堂の軒端(のきば)の雨しづく   宗 波
   神 前
  此(この)松の実ばへ<え>せし代や神の秋  桃 靑 
  むぐはゞや石のおましの苔の露             宗 は
  膝折ルやかしこまり鳴(なく)鹿の聲      ソ ラ
   田 家
  かりかけし田づらのつる(鶴)や里の秋     桃 靑
  夜田かり(刈)に我やとはれん里の月      宗 波
  賤(しづ)の子やいねすりかけて月をみる   桃 靑
  いもの葉や月待(まつ)里の燒(やけ)ばたけ タウセイ
   野
  もゝひきや一花摺(ひとはなずり)の萩ごろも ソ ラ
  はなの秋草に喰(くひ)あく野馬哉           同
  萩原や一(ひと)よはやどせ山のいぬ        桃 靑
   歸路自準(じじゆん)に宿(しゆく)ス
  塒(ねぐら)せよわらほす宿の友すゞめ     主 人
   あきをこめたるくねの指杉(さしすぎ)     客
  月見んと汐引(しほひき)のぼる船とめて    ソ ラ

   貞享丁卯(ていばう)仲秋末五日 


  (注) 1.  「鹿島紀行」の本文は、日本古典文学大系 46 『芭蕉文集』(岩波書店、昭和34年10月5日第1刷発行、昭和39年2月5日第4刷発行)によりました。 本文の校注は、杉浦正一郎・宮本三郎の両氏です。    
    2. 凡例によれば、上記の「鹿島紀行」は秋瓜の宝暦本『鹿島詣』を底本に用いて諸書を校合した、とあります。    
    3.  本文中の平仮名の「く」を縦に伸ばした形の繰り返し符号は、平仮名に直しました。(「をのをの」「はるばる」「おりおり」「まにまに」)    
    4. 漢字の読み仮名は校注者の付けたもので、底本には振り仮名はついていません。振り仮名の一部は省略しました。
なお、<  >で示してある仮名は、校注者による歴史的仮名遣いです。
   
    5. 〇鹿島紀行(かしまきこう)=俳諧紀行。芭蕉著。一巻。1687年(貞享四)門人曾良・宗波と常陸の鹿島へ月見に同行した時のもの。「鹿島詣」とも。(『広辞苑』第6版)
〇鹿島紀行(かしまきこう)=俳諧紀行。一軸。松尾芭蕉作。1687年8月、門人曾良(そら)・宗波と鹿島神宮に詣で、根本寺で月見をした旅の紀行。鹿島詣。(『大辞林』第二版)
   
    6.  〇松尾芭蕉(まつお・ばしょう <まつを・ばせう>)=江戸前期の俳人。名は宗房。号は「はせを」と自署。別号、桃青・泊船堂・釣月軒・風羅坊など。伊賀上野に生まれ、藤堂良精の子良忠(俳号、蝉吟)の近習となり、俳諧に志した。一時京都にあり北村季吟にも師事、のち江戸に下り水道工事などに従事したが、やがて深川の芭蕉庵に移り、談林の俳風を超えて俳諧に高い文芸性を賦与し、蕉風を創始。その間各地を旅して多くの名句と紀行文を残し、難波の旅舎に没。句は「俳諧七部集」などに結集、主な紀行・日記に「野ざらし紀行」「笈の小文」「更科紀行」「奥の細道」「嵯峨日記」などがある。(1644~1694)(『広辞苑』第6版)
〇松尾芭蕉(まつおばしょう <まつをばせう>)= (1644-1694)江戸前期の俳人。伊賀上野の生まれ。名を宗房。別号、桃青・泊船堂・風羅坊など。仮名書き署名は「はせを」。藤堂藩伊賀付侍大将家の嫡子藤堂良忠(俳号蝉吟)の近習となり、その感化で俳諧を学ぶ。良忠の病没後、京都で北村季吟に師事。のち江戸に下り、俳壇内に地盤を形成、深川の芭蕉庵に移った頃から独自の蕉風を開拓した。「おくのほそ道」の旅の体験から、不易(ふえき)流行の理念を確立し、以後その実践を「細み」に求め、晩年に は俳諧本来の庶民性に立ち戻った「軽み」の俳風に達した。俳諧を文芸として高めた功は大きい。後世、代表作を「俳諧七部集」に収める。主な紀行・日記に「野ざらし紀行」「笈(おい)の小文」「更科紀行」「おくのほそ道」「幻住庵記」「嵯峨日記」などがある。(『大辞林』第二版)
   
    7.  『芭蕉DB』というサイトに、「芭蕉年表」「芭蕉文集」「芭蕉句集」「芭蕉七部集」「芭蕉書簡集」その他があって参考になります。    
    8.  『芭蕉庵.com』というサイトに、「奥の細道」についての詳しい資料があり、ここで「奥の細道」の旅全体を紹介した映像のほかに、日光路・奥州路・出羽路・北陸路の4つの旅路に分けて「奥の細道」を紹介した映像を見ることができます。    
           







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