(注) | 1. | 「鹿島紀行」の本文は、日本古典文学大系 46 『芭蕉文集』(岩波書店、昭和34年10月5日第1刷発行、昭和39年2月5日第4刷発行)によりました。 本文の校注は、杉浦正一郎・宮本三郎の両氏です。 | |||
2. | 凡例によれば、上記の「鹿島紀行」は秋瓜の宝暦本『鹿島詣』を底本に用いて諸書を校合した、とあります。 | ||||
3. | 本文中の平仮名の「く」を縦に伸ばした形の繰り返し符号は、平仮名に直しました。(「をのをの」「はるばる」「おりおり」「まにまに」) | ||||
4. |
漢字の読み仮名は校注者の付けたもので、底本には振り仮名はついていません。振り仮名の一部は省略しました。 なお、< >で示してある仮名は、校注者による歴史的仮名遣いです。 |
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5. |
〇鹿島紀行(かしまきこう)=俳諧紀行。芭蕉著。一巻。1687年(貞享四)門人曾良・宗波と常陸の鹿島へ月見に同行した時のもの。「鹿島詣」とも。(『広辞苑』第6版) 〇鹿島紀行(かしまきこう)=俳諧紀行。一軸。松尾芭蕉作。1687年8月、門人曾良(そら)・宗波と鹿島神宮に詣で、根本寺で月見をした旅の紀行。鹿島詣。(『大辞林』第二版) |
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6. | 〇松尾芭蕉(まつお・ばしょう
<まつを・ばせう>)=江戸前期の俳人。名は宗房。号は「はせを」と自署。別号、桃青・泊船堂・釣月軒・風羅坊など。伊賀上野に生まれ、藤堂良精の子良忠(俳号、蝉吟)の近習となり、俳諧に志した。一時京都にあり北村季吟にも師事、のち江戸に下り水道工事などに従事したが、やがて深川の芭蕉庵に移り、談林の俳風を超えて俳諧に高い文芸性を賦与し、蕉風を創始。その間各地を旅して多くの名句と紀行文を残し、難波の旅舎に没。句は「俳諧七部集」などに結集、主な紀行・日記に「野ざらし紀行」「笈の小文」「更科紀行」「奥の細道」「嵯峨日記」などがある。(1644~1694)(『広辞苑』第6版) 〇松尾芭蕉(まつおばしょう <まつをばせう>)= (1644-1694)江戸前期の俳人。伊賀上野の生まれ。名を宗房。別号、桃青・泊船堂・風羅坊など。仮名書き署名は「はせを」。藤堂藩伊賀付侍大将家の嫡子藤堂良忠(俳号蝉吟)の近習となり、その感化で俳諧を学ぶ。良忠の病没後、京都で北村季吟に師事。のち江戸に下り、俳壇内に地盤を形成、深川の芭蕉庵に移った頃から独自の蕉風を開拓した。「おくのほそ道」の旅の体験から、不易(ふえき)流行の理念を確立し、以後その実践を「細み」に求め、晩年に は俳諧本来の庶民性に立ち戻った「軽み」の俳風に達した。俳諧を文芸として高めた功は大きい。後世、代表作を「俳諧七部集」に収める。主な紀行・日記に「野ざらし紀行」「笈(おい)の小文」「更科紀行」「おくのほそ道」「幻住庵記」「嵯峨日記」などがある。(『大辞林』第二版) |
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7. | 『芭蕉DB』というサイトに、「芭蕉年表」「芭蕉文集」「芭蕉句集」「芭蕉七部集」「芭蕉書簡集」その他があって参考になります。 | ||||
8. | 『芭蕉庵.com』というサイトに、「奥の細道」についての詳しい資料があり、ここで「奥の細道」の旅全体を紹介した映像のほかに、日光路・奥州路・出羽路・北陸路の4つの旅路に分けて「奥の細道」を紹介した映像を見ることができます。 | ||||