資料164 和田先生墓側之碑(和田平助の碑)

 

 

     和田先生墓側之碑   昔者水戸藩当威義二公之時也文武士蔚然輩出英名鳴于天下豈得無非右文尚武鼓舞士氣之所致乎而於武技余最有感于和田先生先生諱正勝和田氏通稱平介其先仕武田氏考曰道也諱正勝自甲州徙居常陸那珂郡元和中始仕威公於江戸邸爲御庭同心頭食三百石先生其第三子也寛永二年乙丑正月生水戸下街先生爲人穎敏有大志好兵法通禪理尤善拔刀術旁嗜書及和歌歴事威義二公最蒙義公之寵遇云先生年甫十有五奮然立大成武術之志既而周遊四方與武門諸名士締交切瑳多年業既成則採諸流精英以創一家号曰田宮流居合立合派實爲居合中興之祖矣先生初補小姓待威公特賜禄百石異數也寛文中襲家禄爲大番組兼居合師範役義公甞師事之當此之時府下雖有他流也藩士多從先生学他邦之亦有往々執贄者前後三千人餘名聲大振海内翕然服其精妙延宝四年遷書院番組頭後先生坐同僚朝比奈某事得罪矣一日乞骸骨将去之他邦事聞藩主悔悟命有司召還有司令吏傳命及之城西加倉井邑言未達先生於輿中急拔一刀自屠而絶吏告之有司乃賜屍親族收焉実天和三年九月十一日也享年五十有九娶渡邊氏生二男長曰金次郎次曰介次郎皆早亡嗟乎先生處死今不可得而審焉盖当時去戰國未甚遠士習勇悍尚氣節視耻如泰山死等鴻毛是其所以自屠弗顧歟武士道之烈於是乎可信也後一百零年及文公時振起武事奨励臣下而田宮流尤盛行皆以先生爲宗於是時其徒得官允許改葬于府下神應寺塋域築其土新其碑而毎忌辰就墓修祭事烈公之襲封也修文教奮武衛欲以紹祖先之休烈天保中創弘道館以勧文武之士而演武場設居合一區藤田彪武田正生前後管勾其事皆奨励斯術是以先生名益高我先人亦夙学斯術受傳於佐藤兵助諱重弘而爲師範役教授数年弟子益進後先人以是傳之福生某先人尚無恙也而某就木因余直受其傳於先人傳書皆藏于家抑先生之居合受之山下生夢生夢受之三輪源兵衛源兵衛受田宮平兵衛平兵衛受之林甚助居合之系統其如此甚助創始焉而先生發揮焉而先生之於其術也研精錬神察視機微其接物也心定意静故運用活溌変化莫測要之其神機精絶固他流之所不及企也而門下後進之士亦有其術之精且熟而升堂入室者数十人余曽西遊京都臨於所謂武會者適値讃州高松人某談偶及居合事某稱斯流曰御流以藩祖直傳故也藩祖為源頼重義公伯兄及義公以幕命紹封頼重特封高松盖当時与義公同學先生也其運用之法実与先生所傳符余益感斯術之可崇重矣嗚先生之以神技妙術受明君之知遇既已如彼非不榮也誘掖後進以為士林之模範亦復如此非不顕也但際治平世不竭其技且也一旦罹奇禍其身自殪於刄而家祀終絶欲不悲得乎雖然先生名声赫々今猶昨而其術亦隆々乎傳于世後生仰之如鬼神是可以安毅魄於九泉矣先人甞与同志謀将樹碑先生墓側以表後世事未成而捐舎余雖不肖奉先人遺訓講先生之術也久矣奈何可不力哉迺継承先業略叙先生履歴及流傳顛末并記其系統世歴勒諸貞Α  〔声四十一年一月起草   流儀之系統碑石之裏刻     


         
=病垂(やまいだ)れ+夾+土 
        
音、エイ。うずめる、の意。また、はか(墓)の意もある
       
以下、このページにおけるこの漢字は、すべて島根県立大学e漢字」を使用しています。
                
        

(碑陰)

(上部に右から横書で)田宮流居合立合開祖師範
(以下、縦書で)
  義公曽唱大義分天下民人知有君三百年前水陽地發源正氣武生文
 寛文元年十月  一代 和田平助正勝号夢覺弘武試一詩識
 延宝七年五月  二代 佐野惣内忠勝
 元禄九年九月  三代 望月四郎大夫近信
 正元年八月  四代 三浦収軒元忠
 享保三年正月  五代 久見太郎兵衛正中
 享保五年七月  六代 岡島藤左衛門亦發
 宝暦十二年九月 七代 櫻井与六郎常寅
 安永二年十一月 八代 三村平内忠一
 寛政四年十一月 九代 平戸七郎左衛門幹吉 
 文化五年九月  十代 佐藤政之進重光
 文化九年四月 十一代 平戸八郎衛門幹孝
 天保八年八月 十二代 佐藤權内重遠
 嘉永四年九月 十三代 佐藤兵助重弘
 安政六年十月 十四代 小澤寅吉政方号東武
 文久三年五月 十五代 福生忠左衛門
 明治十年一月 十六代 大日本武會劍術教士 水戸東武館長小澤一郎弘武謹識
                                 
年齢六十歳
                       斯之時神應寺廿一世
                             中僧都奥田太励
年齢
                                                 五十歳

                                 
    大正五年八月爲紀念之建碑残於後世 
                                
石工 木村千代吉


   
  

 

 

訓読文(書き下し文)の試案

 
 和田先生墓側の碑   
昔、水戸藩威義二公の時に当たり、文武の士、蔚然
(うつぜん)として輩出し、英名天下に鳴る。豈に右文尚武、士氣を鼓舞するの致す所に非ざる無きを得んや。而して武技に於て、余最も和田先生に感有り。先生、諱は正勝、和田氏、通稱平介。其の先は武田氏に仕ふ。考は道也と曰ひ、諱は正勝、甲州より徙(うつ)りて常陸那珂郡に居(お)る。元和中、始め威公に江戸の邸に仕へ、御庭同心頭と爲(な)る。三百石を食む。先生は、其の第三子なり。寛永二年乙丑正月、水戸の下街に生まる。先生人と爲(な)り穎敏にして、大志有り。兵法を好み、禪理に通じ、尤も拔刀術を善くす。旁ら書及び和歌を嗜み、威義二公に歴事し、最も義公の寵遇を蒙ると云ふ。先生、年甫(はじ)めて十有五、奮然として武術を大成せんの志を立つ。既にして四方を周遊し、武門の諸名士と交りを締(むす)び、切瑳多年、業既に成る。則ち、諸流の精英を採り、以て一家を創め、号して田宮流居合立合派と曰ふ。實に居合中興の祖と爲る。先生初め小姓に補せられ、威公に待(侍)し、特に禄百石を賜はる。異數なり。寛文中、家禄を襲ひ、大番組と爲る。居合師範役を兼ぬ。義公甞て之に師事す。此の時に當たり、府下他流有りと雖も、藩士多く先生に從ひて学ぶ。他邦、之(これ)も亦、往々贄(し)を執る者、前後三千人餘有り。名聲大いに振ひ、海内翕然(きゅうぜん)として其の精妙に服す。延宝四年、書院番組頭に遷る。後、先生、同僚朝比奈某の事に坐し、罪を得たり。一日(いちじつ)、骸骨を乞ひ、将に去つて他邦に之(ゆ)かんとす。事、聞こゆ。藩主悔悟し、有司に命じて召還せしむ。有司、吏をして命を傳へしむ。之(ゆ)きて城西加倉井邑に及ぶ。言未だ達せざるに、先生、輿中に於て急に一刀を拔き、自ら屠して絶つ。吏、之を有司に告ぐ。乃ち屍を親族に賜り收(しゅうえい)せしむ。実に天和三年九月十一日なり。享年五十有九。渡邊氏を娶り、二男を生む。長を金次郎と曰ひ、次を介次郎と曰ふ。皆早く亡す。嗟乎、先生の死に處する、今得て審にすべからず。盖(けだ)し、当時は戰國を去ること未だ甚しくは遠からず。士、勇悍を習ひ、氣節を尚び、耻を視ること泰山の如く、死は鴻毛に等し。是れ、其の自ら屠して顧みざる所以か。武士道の烈、是に於て信ずべし。後一百零年、文公の時に及び、武事を振起し、臣下を奨励す。而して田宮流尤も盛んに行はる。皆先生を以て宗と爲す。是の時に於て、其の徒、官の允許を得て、改めて府下神應寺の塋域(えいいき)に葬り、其の土を築き、其の碑を新たにし、而して忌辰(きしん)毎に、墓に就いて祭事を修む。烈公の襲封(しゅうほう)するや、文教を修め、武衛を奮ひ、以て祖先の休烈を紹(つ)がんと欲す。天保中、弘道館を創め、以て文武の士を勧め、而して演武場に居合の一區を設け、藤田彪・武田正生、前後して其の事を管勾(かんこう)し、皆斯の術を奨励す。是(ここ)を以て、先生の名益々高し。我が先人も亦、夙(つと)に斯の術を学び、傳を佐藤兵助諱重弘に受く。師範役と爲る。教
授すること数年、弟子益進む。後、先人是(これ)を以て之を福生某に傳ふ。先人尚ほ恙無きも、而も某就木(しゅうぼく)す。因りて余直ちに其の傳を先人に受く。傳書、皆家に藏す。抑先生の居合は、之を山下生夢に受け、生夢之を三輪源兵衛に受け、源兵衛田宮平兵衛に受け、平兵衛之を林甚助に受く。居合の系統は、其れ此(かく)の如し。甚助焉(これ)を創始して、先生焉(これ)を發揮す。而も先生の其の術に於けるや、研精錬神、機微を察視し、其の、物に接するや、心定まり意静かなり。故に運用活溌、変化測る莫し。之を要するに、其の神機精絶、固より他流の企て及ばざる所なり。而して門下後進の士も亦、其の術の精且つ熟、而して堂に升り室に入る者、数十人有り。余曽て西のかた京都に遊び、所謂武會なる者に臨み、適(たまたま)讃州高松の人某に値(あ)ふ。談偶(たまたま)居合の事に及ぶ。某斯の流を稱して御流と曰ふ。藩祖直傳の故を以てなり。藩祖は源頼重、義公の伯兄たり。義公、幕命を以て封(ほう)を紹ぐに及び、頼重、特に高松に封ぜらる。盖し、当時義公と同じく先生に學びしなり。其の運用の法、実に先生の傳ふる所と符す。余益々斯の術の崇重すべきを感ず。嗚(ああ)、先生の、神技妙術を以て明君の知遇を受くるは、既に已に彼(かく)の如し。榮ならざるに非ざるなり。後進を誘掖(ゆうえき)して、以て士林の模範と為るも、亦復た此(かく)の如し。顕ならざるに非ざるなり。但し、治平の世に際し、其の技を竭(つく)さず。且つは一旦奇禍に罹り、其の身自ら刄に殪(たお)れて、家祀終(つい)に絶ゆ。悲しまざらんと欲するも、得んや。然りと雖も、先生の名声赫々(かくかく)として今猶ほ昨のごとくにして、其の術も亦、隆々乎として世に傳はり、後生の之を仰ぐこと鬼神の如し。是れ、以て毅魄、九泉に安んずべし。先人甞て同志と謀り、将に碑を先生の墓側に樹(た)て、以て後世に表さんとす。事未だ成らずして、舎を捐(す)つ。余不肖なりと雖も、先人の遺訓を奉じ、先生の術を講ずるや久し。奈何(いかん)ぞ力めざるべけんや。迺(すなわ)ち先業を継承し、先生の履歴及び流傳の顛末を略叙し、并せて其の系統世歴を記し、諸(これ)を貞(ていみん)に勒(ろく)す。  明治四十一年一月起草  流儀の系統は碑石の裏に刻す     

    

          
=病垂(やまいだ)れ+夾+土
         
(音、エイ。うずめる、の意。また、はか(墓)の意もある。
            
             

          
 
 

 

    (注) 1. 「和田先生墓側之碑」は、水戸市元山町の神応寺にあります。碑陰にあるように、
          大正5年に東武館主小澤一郎氏によって建てられたものです。碑陰には、田宮流
          第一代和田平助以下16代にわたる年代と氏名が刻んであります。
         2. 碑文は、上部中央に右から左に「夢覺」(従って、実際には「覺夢」)という、和田
          平助の号が書かれています。その下に、本文が1行49字、全24行に書かれてい
          ます。(碑面通りの文字配列は、注の16に示してあります。)
         3. 碑文の第1行は、初め5字を空けて「和田先生墓側之碑」とあり、次を3字空けて
          「昔者水戸藩……」と始っています。
         4. 上記の碑文中の漢字は、できるだけ字体を合わせるようにしました
(当・号・学・學・
           宝・将・盖・励・教・溌・声・聲・顛 など)
が、必ずしもすべての漢字の字体を合わせてある
          わけではありません。
         5. 神應寺のご住職に、「和田先生墓側之碑」の訓読文(書き下し文)のコピーを頂戴い
          たしました。
         6. 『金石文化の研究 第八集』(金石文化研究所<本山桂川>、昭和26年6月10日
          発行)にも、「和田平介の碑」として訓読文(書き下し文)が載っています。
         7. 碑文中には「通称平介」とありますが、普通は、碑陰にあるように、「和田平助」と表
          記されています。神應寺の墓碑にも「故平助和田先生墓」とあります。
                 また、「考曰道也諱正勝」とありますが、他の資料では平助の父の諱は「直勝」となっ
          ており(『水戸市史』・福田耕二郎氏の「和田平助正勝(上)」
注14参照など)、「直勝」が
          正しいようです。
         8. 「先生初補小姓待威公」の「待」は、「侍」ととるべきでしょうか。神應寺で頂いたコピ
          ーや本山桂川氏の訓みでも、「威公ニ侍シ」と読んでいます。
           また、後半の「嗚先生之以神技妙術」の「嗚」は、一字で「嗚呼(嗚乎)」の意味を表
          しているものと考えられます。(「呼」や「乎」が入っていません。)
           「且也一旦罹奇禍」とした「一旦」は、神應寺で頂いたコピーと本山桂川氏の訓読で
          は、「一且」としてあります。碑面では、「且」のようにも見え、「旦」のようにも見えます
          が、どちらでしょうか。(左の縦画は下の「一」に付いていますが、右の縦画は「日」の
          ように止まっています。)
         9. 書き下し文の試案は、神應寺のご住職に頂いた訓読文(書き下し文)のコピーと、
          本山桂川氏の 『金石文化の研究 第八集』所収の訓読文を参考に、資料作成者の
          責任で記述しました。読み方については、いろいろ問題点があろうかと思います。
          ご教示いただければ幸いです。なお、訓読文(書き下し漢文)中の漢字の読み仮名
          は、現代仮名遣いで表記しました。
           訓読上の問題点を、いくつか挙げておきます。
          (1)「豈得無非右文尚武鼓舞士氣之所致乎」のところが、神應寺で頂いたコピーには、
            「豈右文尚武士気ノ致ス所ニ非ザル無キヲ得ンヤ」となっており、本山桂川氏の訓
            読では、「豈右文尚武の致す所に非ざる無きを得んや」となっています。碑文には
            「鼓舞」という字が入っていますので、上記の訓読文では「豈に右文尚武、士気を
            鼓舞するの致す所に非ざる無きを得んや」と読みましたが、どんなものでしょうか。
          (2)「藩士多從先生学他邦之亦有往々執贄者前後三千人餘」のところを、神應寺で
            頂いたコピーと本山桂川氏の訓読では、「他邦の人も亦」と、「人」を補って読んで
            います。脱字があると見るべきでしょうか。
          (3)「甚助創始焉而先生發揮焉」を上の訓読文(試案)では、「甚助焉
(これ)を創始し
            て、先生焉
(これ)を発揮す」と読みましたが、神應寺で頂いたコピーと本山桂川氏
            の訓読では、「甚助創始して、而して先生発揮す」と普通に読んでいます。
          (4)「且也一旦罹奇禍」の読みが、落ち着きません。上の訓読文(試案)では、「且つ
            は一旦奇禍に罹り」とよみましたが、神應寺で頂いたコピーと本山桂川氏の訓読
            では、「且つは一且の奇禍に罹り」と読んでいます。(「一旦」か「一且」かを確定
            する必要が、まずありそうです。意味の上からは、どうなるでしょうか。)
          10. 『茨城県大百科事典』(茨城新聞社、1981年10月8日発行)の「神応寺」の項に、
          「境内には、居合い斬
(ぎ)り田宮流の中興の開祖である和田平助の墓があり、とく
          に花柳界の人々の信仰を受けている。」とあります。
           11. 水戸市加倉井町にある中根寺
(ちゅうこんじ)の摩利支天堂には、和田平助が自刃
          したときの遺品である摩利支天と観世音の軸が納められています。平助の守護神
          であった摩利支天は、得財・厄よけ開運・願望成就などのご利益のある仏様として
          信仰されているそうです。(この項、『茨城県大百科事典』による。)
        12. 和田平助(1625 寛永2年〜1683 天和3年)=名は、正勝。通称、平助。号、夢覚。
             水戸藩の剣士。田宮流居合術の名手。新田宮流を開いた。寛政年中に小姓と
             なり、正保年中、百石、慶安年中、小納戸役を経て、寛文元年、新廊下番となる。
             父道也直勝が隠居して家督を継ぎ、三百石大番組となり、延宝4年(1676)、書院
             番組頭、天和元年(1681)、病気のため大番組に復帰、のち改易となり天和3年9
             月11日自刃した。
                         改易の理由が判然としないこと、自刃の経緯に異説の多いこと、その秀抜な技倆
             と多くの奇行などから、平助は水戸藩武術家中では、もっとも伝説的な人物となっ
             ている。また、明治時代からの講談「三家三勇士」(尾張の星野勘左衛門・紀伊の
             和左大八・水戸の和田平助)として人口にのぼっている。(「号、夢覚」以外は、『水
             戸市史』中巻(二)
昭和44年9月10日発行によりました。同書、707〜709頁。「号、夢覚」
             は、碑陰によったものですが、他に記載がないのは、どういうわけでしょうか。)
        13. 『新編常陸国誌』
(昭和44年11月3日初版発行、昭和56年10月1日再版発行)に記載されている
          和田平助についての記事を写しておきます。   
           
和田正勝   
            
[補] 正勝、平介ト稱ス、父某寛永中威公ニ事フ、薙髮シテ道也ト稱シ、三百石ヲ賜ヒ咄衆タリ、
              正勝禄ヲ襲テ大番トナル[系纂]、人トナリ驍果、武藝絶倫、朝比奈夢道ニ從ツテ劍ヲ學ビ、晝夜
              講習シテ其秘奥ヲ極ム、變化神ノ如ク、名ヲ一時ニ擅マニス、時ニ宇都宮隆綱亦撃劍ヲ善ス、正
              勝一日隆綱ヲ訪フ、隆綱一兜鑿ヲ出シテ曰、此吾家ノ重器、累世ノ傳ル所、然レドモ未ダ其用ベ
              キヤ否ヲ知ラズ、願ハクハ子之ヲ試ヨ、正勝其己ヲ試ルコトヲ知リ、固辭スレドモ聽カズ、乃チ刀ヲ
              挺テ之ヲ撃ツ、兜鑿兩斷ス、隆綱意甚ダ之ヲ忌ム、二人是ニテ隙アリ、正勝甞テ江戸ニアリ、
              一日出遊ス、幻人アリ、地ニ臥シ路人ヲシテ、刀子ヲ以テ腹ヲ刺シム、其人左右ニ開避シテ竟ニ
              中ルコト能ハズ、錢ヲ獲ルコト甚ダ多シ、正勝刀子ヲ操テ將ニ之ヲ刺ントス、幻人驚起シテ命ヲ乞
              フ、乃チ之ヲ誡メテ去ル[故老傳説]、甞テ義公ニ謁ス、公近臣ニ命ジ其俯伏ヲ伺テ急ニ障子ヲ閉
                             ヂ、以テ之ヲ試ム、障子猶開クコト數寸、人皆之ヲ怪ム、就テ之ヲ視レバ扇ヲ其間ニ置ク、衆歎服
                    ス、甞テ夜弟子ト譚話スル時、俄ニ狐影ノ障子ニウツルアリ、一座大ニ駭ク、正勝扇ヲ執テ烟盆ヲ
              撃テ節ヲナス、狐躊躇シテ之ヲ聽ク、正勝弟子ヲシテ代テ節ヲ撃シメ、直チニ障子ヲ開テ之ヲ斫ル、
             手ニ應ジテ斃ル、其捷疾人ニ絶スル此ノ類ナリ[桃蹊雜話]、天和三年、事ニ坐シテ逐ル、隆綱ノ
             宅ニ至テ忿言アリ、既ニシテ本府人ヲ遣シテ之ヲ追ハシム、正勝腹ヲ刳テ死セリ[政府書記案]、
             時年五十九[正勝手書]、正勝撃劍ヲ以テ名ヲ得タリ、府下ノ士多ク之ニ從テ學ブ、一時驍勇ノ徒
             多ク其門ニ出ヅ、多賀盛政、齋藤久宗、三浦之忠等尤モ其術ヲ善セリ、守山侯源頼貞亦之ニ從
             テ學ブ、正勝具サニ技撃ノ要ヲ述ベ、一書ヲ爲テ之ヲ献ズ[故老傳説]、正勝天性武ニ長ジ、水野
             立的ニ從テ拳法ヲ受ケ[武用聞書跋]、浦壽頓ニ從テ眉尖刀ヲ學ブ[家庭舊聞]、而シテ劍法尤
             妙トス、然レドモ傑不遜、勇ヲ恃ミ人ヲ凌ギ、竟ニ躯ヲ捐ルニ至ル、論者其勇アリテ行ナキヲ
             惜メリ、始メ夢道ニ從テ坐撃ノ法ヲ受ケ、後更ニ立撃ノ法ヲ創ム、今ニ至テ其術ヲ學ブ者正勝ヲ
             鼻祖トス、所謂新田宮流是ナリ、子金五郎亦撃劍ヲ善ス、正勝之ヲ灰罐覿縫瓮酉逎淵蝓其夜歸
             ヲ伺テ闇中ヨリ之ヲ打チ、或ハ其熟睡ヲ伺テ急ニ呼起ス、然レドモ金五郎常ニ心ヲ用ヒテ父ノ爲ニ
             毆レズ、一日多賀盛政ト相敵ス、盛政毆ツコト能ハズ、正勝酒ヲ酌テ盛政ニ授ク、盛政受テ之ヲ
             飲ミ、忽チ磁器ヲ擲テ金五郎ニ中ントス、金五郎刀ヲ以テ之ヲ捍テ中ラザルコトヲ得タリ、一座其
             楊ヲ歎ズ、好テ長刀ヲ佩ビ、甞テ蜻ノ亂飛スルヲ見テ、刄ヲ揮テ之ヲ斫ル、皆碎裂テ斷レヌ、
             是ヨリ復長刀ヲ佩ブ、正勝之ニ遇スル益嚴酷ニシテ、復人理ナシ、金五郎之ヲ憂ヒ、疾ヲ發シテ
             死ス[名越政敏筆記]、實ニ天和元年也、弟某尚幼、父罪ヲ獲ルニ及テ斬ニ處セラル[系纂]、和
             田氏ノ胤絶ユ、人今ニ至テ之ヲ悼惜ス、
                         和田平助墓
            [補] 茨城郡常磐村神應寺ノ域内ニアリ、碑面ニ道阿宗月居士トアリ、右側に一小碑石アリ、碑面
              如幻童子ト鐫ル、蓋和田氏父子ノ墓ナリ、平助正勝ト云、撃劍ニ長ズ、田宮流ノ祖ナリ、水戸ニ
               仕ヘ三百石大番組トナル、天和三年癸亥九月十一日、罪アリ逐ル、即日召還サル、遂ニ赤塚
             村ニ自殺ス、因テ此ニ葬ル、水府系纂、水府寺社便覧、

              (注)上記の(「搖」−「手偏」+「系」)、(「敖」の下に「鳥」)、(虫+廷)の漢字は、島根
                県立大学の
“e漢字” を利用させていただきました。

         
14. 『郷土文化 第15集』(茨城県郷土文化研究会、昭和49年3月31日発行)、『郷土文化 第16集』
          
(同、昭和49年3月31日発行)に、福田耕二郎氏の「和田平助正勝(上)(下)」があって、詳しい
          記述が見られます。
        15. 坂田暁風著『城東歴史散歩』(平成13年9月20日発行)に、「和田平助正勝──剣聖」
         という項目があり、参考になります。(同書、143〜152頁)
  
         16. 次に、碑の本文を、碑文の通りに改行した文を示します。
              
和田先生墓側之碑   昔者水戸藩当威義二公之時也文武士蔚然輩出英名鳴于天下豈得無非右文尚
       武鼓舞士氣之所致乎而於武技余最有感于和田先生先生諱正勝和田氏通稱平介其先仕武田氏考曰道也諱正勝自甲

          
 州徙居常陸那珂郡元和中始仕威公於江戸邸爲御庭同心頭食三百石先生其第三子也寛永二年乙丑正月生水戸下街
             先生爲人穎敏有大志好兵法通禪理尤善拔刀術旁嗜書及和歌歴事威義二公最蒙義公之寵遇云先生年甫十有五奮然
             立大成武術之志既而周遊四方與武門諸名士締交切瑳多年業既成則採諸流精英以創一家号曰田宮流居合立合派實
             爲居合中興之祖矣先生初補小姓待威公特賜禄百石異數也寛文中襲家禄爲大番組兼居合師範役義公甞師事之當此
             之時府下雖有他流也藩士多從先生学他邦之亦有往々執贄者前後三千人餘名聲大振海内翕然服其精妙延宝四年遷
             書院番組頭後先生坐同僚朝比奈某事得罪矣一日乞骸骨将去之他邦事聞藩主悔悟命有司召還有司令吏傳命及之城
             西加倉井邑言未達先生於輿中急拔一刀自屠而絶吏告之有司乃賜屍親族收焉実天和三年九月十一日也享年五十
             有九娶渡邊氏生二男長曰金次郎次曰介次郎皆早亡嗟乎先生處死今不可得而審焉盖当時去戰國未甚遠士習勇悍尚
             氣節視耻如泰山死等鴻毛是其所以自屠弗顧歟武士道之烈於是乎可信也後一百零年及文公時振起武事奨励臣下而
             田宮流尤盛行皆以先生爲宗於是時其徒得官允許改葬于府下神應寺塋域築其土新其碑而毎忌辰就墓修祭事烈公之
             襲封也修文教奮武衛欲以紹祖先之休烈天保中創弘道館以勧文武之士而演武場設居合一區藤田彪武田正生前後管
             勾其事皆奨励斯術是以先生名益高我先人亦夙学斯術受傳於佐藤兵助諱重弘而爲師範役教
授数年弟子益進後先人
             以是傳之福生某先人尚無恙也而某就木因余直受其傳於先人傳書皆藏于家抑先生之居合受之山下生夢生夢受之三
             輪源兵衛源兵衛受田宮平兵衛平兵衛受之林甚助居合之系統其如此甚助創始焉而先生發揮焉而先生之於其術也研
             精錬神察視機微其接物也心定意静故運用活溌変化莫測要之其神機精絶固他流之所不及企也而門下後進之士亦有
             其術之精且熟而升堂入室者数十人余曽西遊京都臨於所謂武會者適値讃州高松人某談偶及居合事某稱斯流曰御
             流以藩祖直傳故也藩祖為源頼重義公伯兄及義公以幕命紹封頼重特封高松盖当時与義公同學先生也其運用之法実
             与先生所傳符余益感斯術之可崇重矣嗚先生之以神技妙術受明君之知遇既已如彼非不榮也誘掖後進以為士林之模
             範亦復如此非不顕也但際治平世不竭其技且也一旦罹奇禍其身自殪於刄而家祀終絶欲不悲得乎雖然先生名声赫々
             今猶昨而其術亦隆々乎傳于世後生仰之如鬼神是可以安毅魄於九泉矣先人甞与同志謀将樹碑先生之墓側以表後世
             事未成而捐舎余雖不肖奉先人遺訓講先生之術也久矣奈何可不力哉迺継承先業略叙先生履歴及流傳顛末并記其系
             統世歴勒諸貞Α  〔声四十一年一月起草   流儀之系統碑石之裏刻 

          
(9行目)=病垂(やまいだ)れ+夾+土(音、エイ。うずめる、の意。また、はか(墓)の意もある。)

                           

         17. 『ぶらり重兵衛の歴史探訪2』というサイトに、「和田平助」のページがあり、参考になり
          ます。
                『ぶらり重兵衛の歴史探訪2』 → 「和田平助」
          
                             (2013年6月12日付記)

 

 

 

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