資料163 芥川龍之介「蕗」(『点心』所収)

  
 

 

           蕗                  芥川 龍之介

 坂になつた路の土が、砥の粉のやうに乾いてゐる。寂しい山間の町だから、路には石塊も少くない。兩側には古いこけら葺の家が、ひつそりと日光を浴びてゐる。僕等二人の中學生は、その路をせかせか上つて行つた。すると赤ん坊を背負つた少女が一人、濃い影を足もとに落しながら、靜に坂を下つて來た。少女は袖のまくれた手に、莖の長い蕗をかざしてゐる。何の爲めかと思つたら、それは眞夏の日光が、すやすや寢入つた赤ん坊の顔へ、當らぬ爲の蕗であつた。僕等二人はすれ違ふ時に、そつと微笑を交換した。が、少女はそれも知らないやうに、やはり靜に通りすぎた。かすかに頬が日に燒けた、大樣の顔だちの少女である。その顔が未にどうかすると、はつきり記憶に浮ぶ事がある。里見君の所謂一目惚れとは、こんな心もちを云ふのかも知れない。
(二月十日)

 


  (注) 1.  上記の本文は、『芥川龍之介全集 第四巻』(岩波書店、1977年11月22日第1刷発行、1982年8月20日第2刷発行)によりました。    
    2.  前記の全集の後記によれば、 「蕗」は、大正10年(1921)3月1日発行の雑誌『新潮』第34巻第3号に掲載され、のち『點心』に収められました。
 また、『梅・馬・鶯』にも収められているそうです。上記の本文は、『點心』を底本とし、初出以下と校合した、とあります。
  『點心』は、芥川初の随筆集で、大正11年5月20日、金星堂から刊行されました。
   
    3.  上記本文中の「頬」の字は、正字「?(夾+頁)」がうまく表示できない恐れがあるので、この字体で我慢しました。一言、お断りしておきます。    
    4.  昭和25年ごろの『高等国語一上』(文部省発行)の教科書に、この「蕗」が掲載されていたように覚えていますが、どうでしょうか。末尾の「里見君の所謂一目惚れとは、こんな心もちを云ふのかも知れない。」という一文は、除かれていたと思います。
 (追記)文部省発行の『高等国語』の教科書を見てみましたが、この「蕗」は出ていませんでした。どこで読んだのでしょうか。(2008.3.13記)
   
           
           

    
       
       


 
 





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