資料149 立原杏所墓碑銘



 

立原杏所墓碑銘        

水戸立原君與予交幾二十載矣毎花晨月夕未甞不招邀竿牘之往來殆無虗日酒間相得甚驩常顧客謂此子長于歌行必取詩天下矣歳己亥嬰脚疾配松平氏曰良人若不諱墓銘屬誰曰我非文人儒士何以碑版爲氏固請曰我得鹽田士鄂文巻致遠書足矣其臨歿也勅曰先君手澤遺書謹守之勿散逸氏泣諾之納諸篋固其扄鐍天保庚子五月廾日歿于江戸小石川邸舎享年五十六華聞訃奔赴氏告治命予慨然曰華辱知己久矣義不敢辭君諱仼字子遠號杏所稱仼太郎本稱甚太郎 今公賜改焉立原氏系出常陸平氏
世仕 水戸考諱萬彰考館編修總裁學者稱翠軒先生取鶴見氏以天明乙巳十二月廾六日生君於水戸君歴事 武公 哀公 今公寵遇愈隆享和癸亥三月翠軒先生致仕君爲小普請組襲禄二百石十二月除大番文化辛未補次扈從 武公之就國召見命畫援筆立就有逸致 公奇之壬申轉側扈從是歳命徙江戸邸文政壬午遷通事 哀公之逝國嗣未定諸大夫承遺命奉 今公而立之事秘外罔聞知而輿論翕然稱君有翊賛之功天保庚寅陞先手物頭丙申爲西城城附普扈從頭加禄五十石班準六位日侍君側啓沃將順 公嘉納恩賚甚渥及其疾篤辭職優命養病其歿 公在水戸訃聞 公傷悼焉君爲人慷慨尚氣節重然諾以清白自將工書畫兼長篆刻愛法書古畫精鑒別覆射其署名百不失一人服其明慧爭齎古墨蹟乞鑒定以爲證左君愛客屨錯乎戸然不喜達官有納交者婉辭謝之好聞西洋説靑地林宗幡﨑鼎坪井春道輩來往不絶暇輙出交天下知名士論質大義廣捜異聞 哀公文雅愛書畫君甞奉旨赴鎌倉訪觀古刹名衲眞蹟臨撫進呈凡數百巻捜羅無遺自是鑒識大進 公親書天下一三字賜之許爲花押其配尾藩松平元儔女有三男六女長男元三郎殤次清彦其在娠也 公賜名清彦及生果男也庚子春 公又賜書爲嗣寔特旨也先君一月亡次百里稱朴二郎年僅九歳襲禄爲中寄合歸水戸二女夭四女未嫁以庚子五月廾三日葬君於豐島郡海藏寺先塋之側會者逾三百人都鄙傳訃莫不惋惜識者尤惜焉 公留心海防練水軍習火器蓋虞俄羅斯英吉利窺邊徼也因羅致技藝之士君與有力爲其他偉行奇績多渉機密未甞漏泄故不能紀述云翠軒先生素好書畫自運亦精詣君世其家學也嗟君之忠孝純摯卓卓可表異如書畫其餘事耳亦足以受主之知養親之志矣銘曰
風標瀟灑神骨清矯矯節概守忠貞人言書畫鑒賞精誰識實有知人明名儒子姓墮家聲肯爲章句作書生三世寵爵直内廷君恩山嶽鴻毛輕欲以謇諤達英明甞在外班疎進見一日有召命丹靑佯醉聘睨近 公座水墨横飛濺 公裳手拈帨巾蘸墨瀋巨竹蒲萄信手成顆顆磊落黑水晶勁竿俊葉清風生擲巾曰臣技止此臣首可斬吐赤誠直言極諫辨邪正 公能優納久傾聽君退待命分死罪親筆褒美有餘榮恩賜酒杯旌忠烈二十杯酒卿可傾既醉以酒飽以德貞珉不泐永茲銘君明臣直眞奇遇寵光千載炤墳塋
天保十一年歳在庚子九月 津邸敎授伊賀鹽田華撰 大乘寺沙門日華集巻大仼書
                                
廣群鶴刻
                                   

 

 

 

 



 
    (注) 1. 水戸市六反田町(旧・常澄村)の六地蔵寺にある立原家の墓地に建っている
          立原杏所の墓碑銘です。
         2. 碑には題額等はなく、上の碑文だけが彫られています。碑文は、1行35字、
          本文31行で、建碑の年月日・撰者・書者が次の1行に、最後にやや小さく、
          刻者の名が記されています。
         3. 上に掲げた碑の本文は、実際の碑文通りに改行してあります。所どころに
          置かれている闕字も、碑文通りです。
         4. 立原杏所(たちはら・きょうしょ)=江戸後期の文人画家。名は任。水戸の
             人。翠軒の長子。谷文晁
(たにぶんちょう)に文人画を学び、花鳥画を主に
             清新な感覚の絵を描いた。(1785~1840)  
(『広辞苑』第6版による。)
           立原杏所(1786
─1840)=江戸後期の画家。天明5年12月16日生まれ。
             立原翠軒の長男。常陸水戸藩士。3代の藩主につかえ、徳川斉昭の信
             任をえる。画を林十江、小泉檀山、僧月遷らにまなび、谷文晁の影響も
             うける。渡辺崋山と親交をむすんだ。天保11年5月20日死去。56歳。名
             は任。字
(あざな)は子遠、遠卿。別号に東軒、香案小史など。(『講談社
             本人名大辞典』
2001年12月6日第1刷発行、2001年12月25日第2刷発行によ
             る。)

         5. 碑文の撰者・鹽田華は、津藩の鹽田随斎です。
           塩田随斎(1798─1845)=江戸時代後期の儒者。寛政10年9月22日生まれ。
             伊勢(三重県)津藩士。古賀精里にまなび、藩校有造館の講官、のち江戸
             藩邸の講官となる。詩をこのみ、猪飼敬所、頼山陽らとまじわる。のち江戸
             谷中に止至善塾をひらく。没後に「随斎詩鈔」が刊行された。弘化2年2月
             27日死去。48歳。名は華。字は士萼。通称は又之丞。別号に巨瓢子。
                                    (『
講談社日本人名大辞典』による。)
         6. 碑文は、篆書で書かれているため、文字が正しく写されているかどうかに、
          やや不安があります。お気づきの点を教えて頂ければ幸いです。
         7. 東京国立博物館のホームページで、同館所蔵の重要文化財「葡萄図」の画像が、
          見られます。
        

  

 

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