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(注) |
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水戸市六反田町(旧・常澄村)の六地蔵寺にある立原家の墓地に建っている立原杏所の墓碑銘です。 |
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碑には題額等はなく、上の碑文だけが彫られています。碑文は、1行35字、本文31行で、建碑の年月日・撰者・書者が次の1行に、最後にやや小さく、刻者の名が記されています。 |
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3. |
上に掲げた碑の本文は、実際の碑文通りに改行してあります。所どころに置かれている闕字も、碑文通りです。 |
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〇立原杏所(たちはら・きょうしょ)=江戸後期の文人画家。名は任。水戸の人。翠軒の長子。谷文晁(たにぶんちょう)に文人画を学び、花鳥画を主に清新な感覚の絵を描いた。(1785~1840)(『広辞苑』第6版による。)
〇立原杏所(1786☆─1840)=江戸後期の画家。天明5年12月16日生まれ。立原翠軒の長男。常陸水戸藩士。3代の藩主につかえ、徳川斉昭の信任をえる。画を林十江、小泉檀山、僧月遷らにまなび、谷文晁の影響もうける。渡辺崋山と親交をむすんだ。天保11年5月20日死去。56歳。名は任。字(あざな)は子遠、遠卿。別号に東軒、香案小史など。(『講談社日本人名大辞典』2001年12月6日第1刷発行、2001年12月25日第2刷発行による。) |
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碑文の撰者・鹽田華は、津藩の鹽田随斎です。
塩田随斎(1798─1845)=江戸時代後期の儒者。寛政10年9月22日生まれ。伊勢(三重県)津藩士。古賀精里にまなび、藩校有造館の講官、のち江戸藩邸の講官となる。詩をこのみ、猪飼敬所、頼山陽らとまじわる。のち江戸谷中に止至善塾をひらく。没後に「随斎詩鈔」が刊行された。弘化2年2月27日死去。48歳。名は華。字は士萼。通称は又之丞。別号に巨瓢子。(『講談社日本人名大辞典』による。) |
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6. |
碑文は、篆書で書かれているため、文字が正しく写されているかどうかに、やや不安があります。お気づきの点を教えて頂ければ幸いです。 |
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7. |
東京国立博物館のホームページで、立原杏所筆の同館所蔵の重要文化財「葡萄図」の画像が、見られます。 |
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