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(注) |
1. |
墓碑は、上部に「立原翠軒 居士之墓」と2行に書いてあり、その下に、1行20字で9行にわたって、上に示した文が篆書で書かれています。
上の碑文の改行は、碑陰とも碑文の通りにしてあります。 |
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2. |
立原翠軒の没年月日については、文政6年3月14日、または、同年3月18日とするものがあるようですが、上記の碑文の本文には「3月14日」としてあります。(碑文の「4」の字は篆書で書かれているので、「六反田邨」の「六」と似ていて「6」と紛らわしいのですが、死去の日を「16日」とする資料は見当たらないようですので、「14日」と判読しておきました。)
『立原翠軒』(前田香径編、昭和38年6月25日・立原善重発行、限定1,000部、)に掲載されている「立原翠軒年譜」(岡沢稲里編、昭和20年10月改訂草稿)には、「(文政6年)3月14日夜歿す、同16日江戸駒込海蔵寺に葬る」とあります。(同書130頁)
また、同書88頁の「立原翠軒居士之墓」の碑文を活字におこしたものには、「以文政六年三月十四日為終焉之日」と、「十四日」と読んでいます。 |
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3. |
(1)
「碑陰」の「拜」は、碑面では「琴-今+下」(「王」を二つ並べた下に「下」)という字になっています。前川捷三編『水戸の漢詩文 二集』(茨城大学教育学部国語教育講座、1999年3月発刊)で、前川先生は「拜」の本字としておられるのに従って、「拜」としました。(「不肖男任泣血して篆額并びに書を拜す」と読んでおられます。
(2)碑陰の「藤田貞正」の「正」は、碑面では「(千+凵)」という字になっていますが、これも前川先生のご本で、「正」に同じ、と教えていただきました。 諸橋大漢和辞典の凵部3画のところに 「正に同じ。 [字彙]「 」、武后所製正字」と出ています。(
の字は、島根県立大学の “e漢字”
を利用させていただきました。) |
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4. |
上に引いた前川捷三編『水戸の漢詩文 二集』には、「立原翠軒居士之墓」の墓誌が、返り点・送り仮名つきで掲載されています。頭注や異体字の注もつけてあって、たいへん参考になります。 |
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5. |
立原翠軒が水戸の六地蔵寺にも埋葬されることになった時に建てられた「顕徳碑」の碑文を、次に写しておきます。
顕 徳 碑
立原翠軒先生はその意向により妻塩(鶴見氏)の眠る
海蔵寺に埋葬された。
先生の子孫は長く東京海蔵寺を菩提寺とし、その後
杏所、春沙外代々同寺に埋葬されている。
今般、翠軒先生とその子孫は翠軒先生の祖父達朝、
父蘭渓及び孫朴二郎の眠る当山と海藏寺の双方に埋葬
され、その偉業が顕彰されることになった。
平成六年五月吉日 聖寶院六地蔵寺 |
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6. |
東京の海蔵寺には、小宮山楓軒の撰文による立原翠軒の墓誌がある由です。 |
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7. |
〇立原翠軒(たちはら・すいけん)=江戸後期の儒学者。名は万。別号、東里。水戸藩士。徂徠学を修め、彰考館総裁となり、「大日本史」編纂を再興。藩政にも貢献、また書道などに秀でる。著 「此君堂集」。(1744~1823)(『広辞苑』第6版による。)
〇立原翠軒(たちはら・すいけん)(1744─1823)= 江戸時代中期─後期の儒者。延享元年6月7日生まれ。立原蘭渓の子。常陸水戸藩士。徂徠学をまなび彰考館にはいり、天明6年総裁となる。「大日本史」校訂について門人藤田幽谷と対立して享和3年総裁を辞任。文政6年3月14日死去。80歳。名は万。字(あざな)は伯時。通称は甚五郎。別号に東里、此君堂(しくんどう)。著作に「西山遺聞」「此君堂文集」など。(『講談社日本人名大辞典』2001年12月6日第1刷発行、2001年12月25日第2刷発行による。) |
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8. |
「碑陰」に出ている藤田貞正について。
藤田北郭(ふじた・ほっかく)=北郭(安永3-弘化3)は書道の達人で、立原翠軒門下の高弟である。名は貞正、字は子師、北郭と號した。享年73。 (高須芳次郎編『水戸学辞典』(水戸学大系刊行会、昭和17年7月15日発行)による。) |
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