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(注) |
1. |
本文は、新釈漢文大系39『史記 二(本紀)』(吉田賢抗著、明治書院・昭和48年4月25日初版発行)によりました。ただし、返り点・句読点は省略しました。
改行も、「太史公曰」以外は省略しました。 |
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2. |
本文中の〔 〕の文字は、底本にないものを、著者の吉田賢抗氏が他の本によって補われたものです。詳しくは、上掲書を参照してください。 |
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3. |
本文中の(巣+阝・音ソウ)という漢字は、島根県立大学のe漢字を利用させていただきました。 |
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垓下で項羽が「抜山蓋世」(ばつざんがいせい)の歌を歌ったとき、虞美人が和して歌ったとされる歌が伝えられています。
「漢兵已略地 四方楚歌聲 大王意氣盡 賤妾何聊生」(楚漢春秋)。 |
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〇項羽(こう・う)=秦末の武将。名は籍。羽は字。下相(江蘇宿遷)の人。叔父項梁と挙兵、劉邦(漢の高祖)とともに秦を滅ぼして楚王となった。のち劉邦と覇権を争い、垓下がいかに囲まれ、烏江で自刎じふん。(前232~前202)
〇垓下(がいか)=中国安徽省霊璧県の南東の古戦場。前202年、漢の高祖の軍が楚の項羽をこの地に包囲、羽は四面楚歌しめんそかのうちに烏江に逃れて自殺、高祖の天下統一が実現した。
〇鴻門の会(こうもん・の・かい)=前206年、漢の高祖劉邦と楚王項羽とが鴻門に会し、羽は范増はんぞうの勧めによって邦を殺そうとしたが、邦は張良の計に従って樊噲はんかいを伴って逃れ去った事件。
〇四面楚歌(しめんそか)=[史記項羽本紀] (楚の項羽が垓下がいかで漢の劉邦 の軍に囲まれた時、夜更けて四面の漢軍中から盛んに楚国の歌が起こるのを聞いて、楚の民がすべて漢に降ったかと、驚き嘆いたという故事から)たすけがなく孤立すること。周囲がみな敵や反対者ばかりであること。楚歌。
〇抜山蓋世(ばつざん・がいせい)=[史記項羽本紀] 力は山を抜き、気は世をおおうほどに、勇壮な気性の形容。
〇書は以て姓名を記するに足るのみ=[史記項羽本紀] 書は姓名を書くことができれば十分で、それ以上学ぶ必要はない。項羽が書・剣を学んで成らなかったのを、季父項梁に戒められた時の言葉。「剣は一人の敵、学ぶに足らず。万人の敵を学ばん」と続き、天下を取るための兵法を学ぶべきであるとした。
〇剣は一人の敵、学ぶに足らず=[史記項羽本紀] 剣術は一人を相手にするだけのもので学ぶほどの価値はない。万人を相手とする兵法を学ぶべきであるとした項羽の言葉。 →
書は以て姓名を記するに足るのみ
〇大行たいこうは細謹さいきんを顧みず=[史記項羽本紀「樊噲はんかい曰く、大行は細謹を顧みず、大礼は小譲を辞せず」] 大事業をなそうと志す者は、細かい事柄には頓着しない。俗に、「細謹」(細かいことにも注意する意)を「細瑾」(些細な欠点の意)とも書く。
〇錦を衣きて夜行くが如し=[史記項羽本紀「富貴にして故郷に帰らざるは、繡を衣きて夜行くが如し、誰か之を知る者ぞ」] 立身出世しても、故郷に帰り知人にその栄誉を知られなくては、その甲斐がないの意。
〇沐猴もっこうにして冠す=[史記項羽本紀] (故郷を懐かしんで中国統一の大業を疎んじた項羽を嘲った言葉から)猿が王冠をかぶっているように、所詮、人君にはふさわしくない人物だというたとえ。
〇虎を養いて自ら患うれいを遺す=[史記項羽本紀] 虎の子を殺さずに育てると凶暴な猛虎になってしまうように、後日の禍根となるものを温存しておくことのたとえ。
〇糧かてを棄て船を沈むる謀はかりごと=楚の項羽が鉅鹿きょろくの戦いに、釜を破り、小屋を 焼き、船を沈めて、士卒に生還の志を抱かせなかったために、大勝利を得たという故事。必死の覚悟で敵と決戦すること。
〇騅(すい)=①葦毛の馬。あしげうま。②[史記項羽本紀「時に利あらず騅逝ゆかず」] 楚の項羽の愛馬の名。
〇函谷関(かんこくかん)=中国河南省北西部にある交通の要地。新旧二関があり、秦代には霊宝県、漢初、新安県の北東に移された。河南省洛陽から潼関どうかんに至る隘路あいろにある。古来、多くの攻防戦が行われた。
〇烏江(うこう)=(1)中国安徽省和県の北東の地名。長江に通ずる小運河に沿う。劉邦と天下を争って敗れた項羽が自刎じふんした所。(2)略。
〇亜父(あふ)=[史記項羽本紀](項羽が范増を尊んだ語から)父についで尊敬する人。父のごとく尊ぶ人。
〇范増(はん・ぞう)=秦末の人。楚の項羽に仕え、奇計を以て戦功を立て、鴻門の会には劉邦を刺そうとして果たさず、後に項羽と不和を生じて去った。(─ ~前204)
〇英布(えい・ふ)=秦末・漢初の武将。若いとき罪あって黥いれずみの刑を受けたので、黥布げいふとも称。陳勝に応じて挙兵し、項羽に従って各地に転戦、漢に服属して淮南王となったが、謀反によって滅ぼされた。(─ ~前195頃)。
〇劉邦(りゅう・ほう)=前漢の初代皇帝。高祖。字は季。江蘇沛はいの人。農民から出て、泗水の亭長となる。秦末に兵を挙げ、項梁・項羽らと合流して楚の懐王を擁立し、巴蜀・漢中を与えられて漢王となる。後に項羽と争い、前202年これを垓下がいかに破って天下を統一。長安に都して漢朝を創立。(在位前202~前195)(前247~前195)
〇蕭何(しょう・か)=前漢の宰相。張良・韓信と共に高祖三傑の一人。江蘇沛県の人。劉邦(高祖)が関中に入るや秦の律令・図書を収め、軍政・民政に通じ、劉邦が項羽と争った時、よく関中の経営にあたり、後顧の患をなくした。天下定って後、相国(宰相)となり、功第一を以て酇さん侯に封。(─ ~前193)
〇張良(ちょう・りょう)=前漢創始の功臣。字は子房。韓の人。秦の始皇帝の暗殺に失敗、のち黄石公から太公望の兵書を授けられ、劉邦の謀臣となって秦を滅ぼし、鴻門の会に劉邦の危難を救い、遂に項羽を平らげ、漢の統一後、留侯に封。(─ ~前168)
〇韓信(かん・しん)=漢初の武将。蕭何しょうか・張良とともに漢の三傑。江蘇淮陰わい いんの人。高祖に従い、蕭何の知遇を得て大将軍に進み、趙・魏・燕・斉を滅ぼし、項羽を孤立させて天下を定め、楚王に封、後に淮陰侯におとされた。謀叛の嫌疑で誅殺。(─ ~前196)
〇韓信の股(また)くぐり=青年時代の韓信が、衆人の前で、ならず者の言うままに彼の股をくぐるという辱(はずかし)めを甘受した故事。将来の大きな目的のために、一時の恥に耐えること。韓信匍匐(ほふく)。
〇紀信(き・しん)=漢初の武将。楚の兵が漢王劉邦を滎陽けいように囲んで危急が迫った時、漢王と偽称して楚に降り、漢王を逃れさせ、楚の項羽に焼き殺された。
(以上、 この項は『広辞苑』第6版によりました。) |
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6. |
『China the Beautiful』(錦繍中華之一頁)というサイトで、『史記三家注』の「項羽本紀第七」を読むことができます。
『China the Beautiful』(錦繍中華之一頁) → 下方の「歴史傳記」をクリック
→ 「史記三家注」の「本紀 六至十二」をクリック → 史記巻七 項羽本紀第七
残念ながら現在は見られないようです。(2017年10月27日) |
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