たのしみはあき米櫃に米いでき今一月はよしといふとき
たのしみは物識人
(ものしりびと)に稀にあひて古
(いに)しへ今を語りあふとき
たのしみは門
(かど)賣りありく魚買
(かひ)て煮
(に)る鐺
(なべ)の香を鼻に嗅ぐ時
たのしみはまれに魚煮て兒等
(こら)皆がうましうましといひて食ふ時
たのしみはそゞろ讀
(よみ)ゆく書
(ふみ)の中に我とひとしき人をみし時
たのしみは雪ふるよさり酒の糟あぶりて食
(くひ)て火にあたる時
たのしみは書よみ倦
(うめ)るをりしもあれ聲知る人の門たゝく時
たのしみは世に解
(とき)がたくする書の心をひとりさとり得し時
たのしみは錢なくなりてわびをるに人の來
(きた)りて錢くれし時
たのしみは炭さしすてゝおきし火の紅
(あか)くなりきて湯の煮
(にゆ)る時
たのしみは心をおかぬ友どちと笑ひかたりて腹をよるとき
たのしみは晝寝せしまに庭ぬらしふりたる雨をさめてしる時
たのしみは晝寝目ざむる枕べにことことと湯の煮
(にえ)てある時
たのしみは湯わかしわかし埋火
(うづみび)を中にさし置
(おき)て人とかたる時
たのしみはとぼしきまゝに人集め酒飲め物を食へといふ時
たのしみは客人
(まらうど)えたる折しもあれ瓢
(ひさご)に酒のありあへる時
たのしみは家内
(やうち)五人
(いつたり)五たりが風だにひかでありあへる時
たのしみは機
(はた)おりたてゝ新しきころもを縫
(ぬひ)て妻が着する時
たのしみは三人の兒どもすくすくと大きくなれる姿みる時
たのしみは人も訪ひこず事もなく心をいれて書
(ふみ)を見る時
たのしみは明日物くるといふ占
(うら)を咲くともし火の花にみる時
たのしみはたのむをよびて門
(かど)あけて物もて來つる使
(つかひ)えし時
たのしみは木芽
(きのめ)煮
(にや)して大きなる饅頭
(まんぢゆう)を一つほゝばりしとき
たのしみはつねに好める燒豆腐うまく煮
(に)たてゝ食
(くは)せけるとき
たのしみは小豆の飯の冷
(ひえ)たるを茶漬
(ちやづけ)てふ物になしてくふ時
たのしみはいやなる人の來たりしが長くもをらでかへりけるとき
たのしみは田づらに行
(ゆき)しわらは等が耒
(すき)鍬
(くは)とりて歸りくる時
たのしみは衾
(ふすま)かづきて物がたりいひをるうちに寝入
(ねいり)たるとき
たのしみはわらは墨するかたはらに筆の運びを思ひをる時
たのしみは好き筆をえて先
(まづ)水にひたしねぶりて試
(こころみ)るとき
たのしみは庭にうゑたる春秋の花のさかりにあへる時々
たのしみは草のいほりの筵
(むしろ)敷
(しき)ひとりこゝろを靜めをるとき
たのしみはすびつのもとにうち倒れゆすり起
(おこ)すも知らで寝し時
たのしみは珍しき書
(ふみ)人にかり始め一ひらひろげたる時
たのしみは紙をひろげてとる筆の思ひの外に能くかけし時
たのしみは百日
(ももか)ひねれど成らぬ歌のふとおもしろく出
(いで)きぬる時
たのしみは妻子
(めこ)むつまじくうちつどひ頭
(かしら)ならべて物をくふ時
たのしみは物をかゝせて善き價惜
(をし)みげもなく人のくれし時
たのしみは空暖
(あたた)かにうち晴
(はれ)し春秋の日に出でありく時
たのしみは朝おきいでゝ昨日まで無
(なか)りし花の咲ける見る時
たのしみは心にうかぶはかなごと思ひつゞけて煙草
(たばこ)すふとき
たのしみは意
(こころ)にかなふ山水のあたりしづかに見てありくとき
たのしみは尋常
(よのつね)ならぬ書
(ふみ)に畫
(ゑ)にうちひろげつゝ見もてゆく時
たのしみは常に見なれぬ鳥の來て軒遠からぬ樹に鳴
(なき)しとき
たのしみはほしかりし物錢ぶくろうちかたぶけてかひえたるとき
たのしみは神の御國の民として神の敎
(をしへ)をふかくおもふとき
たのしみは戎夷
(えみし)よろこぶ世の中に皇國
(みくに)忘れぬ人を見るとき
たのしみは鈴屋大人
(すすのやうし)の後
(のち)に生れその御諭
(みさとし)をうくる思ふ時
たのしみは數ある書
(ふみ)を辛くしてうつし竟
(をへ)つゝとぢて見るとき
たのしみは野寺山里日をくらしやどれといはれやどりけるとき
たのしみは野山のさとに人遇
(あひ)て我を見しりてあるじするとき
たのしみはふと見てほしくおもふ物辛くはかりて手にいれ
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(注) |
1. |
上記の橘曙覧の「獨楽吟」の本文は、『日本古典文学大系 93
近世和歌集』(岩波書店、昭和41年8月6日第1刷発行)によりました。凡例に、『志濃夫廼舎歌集』を底本にしたとあります。 |
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2. |
「獨楽吟」は、『志濃夫廼舎歌集』の中の「春明艸(はるあけぐさ)第三集」に収められています。 |
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3. |
歌の振り仮名(ルビ)は、校訂者(久松潜一・片桐顕智氏)の付したものです。振り仮名(ルビ)は、括弧
( ) に入れて示しました。
また、仮名2字又は3字の繰り返し符号(「く」を縦に長く伸ばした形の踊り字)は、普通の仮名に直して表記しました。(「うましうまし」「ことこと」「わかしわかし」「すくすく」の4箇所。) |
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4. |
「獨楽吟」(どくらくぎん)は、全部で52首あります。すべて「たのしみは」で始まり、「とき」(時)で終わる形式をとっており、上記の『日本古典文学大系
93 近世和歌集』の頭注には、「歌人曙覧の心構えと生活の深さを味到できる」とあります。 |
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5. |
橘曙覧(たちばな・あけみ 1812~1868)=江戸末期の歌人・国学者。福井の人。姓は井手ともいう。名は尚事、後に曙覧、家号は志濃夫廼舎(しのぶのや)・藁屋。田中大秀(おおひで)
に国学を学び、万葉調の歌をよくした。作「志濃夫廼舎歌集」「藁屋詠草」「藁屋文集」など。(『広辞苑』第6版による。) |
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6. |
「福井市橘曙覧記念文学館」があります。ここのページでは、橘曙覧の年譜や「独樂吟」も見ることができます。 |
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7. |
福井県立図書館のサイトにあるデジタルアーカイブで、『志濃夫廼舎歌集三四』に収められている「独樂吟」を見ることができます。16~20/42
(書誌情報の『志濃夫廼舎歌集』の下にある、左から3番目の「デジタルアーカイブ」が『志濃夫廼舎歌集三四』です。)
なお、『デジタルアーカイブ福井』でも、同じ『志濃夫廼舎歌集三四』の画像を見ることができます。 |
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